胡震亨

胡 震亨(こ しんきょう、1569年(隆慶3年) - 1645年(順治2年、弘光元年/隆武元年))は、明代の文人。元の君鬯(くんちょう)、字は孝轅(こうえん)、遯叟(とんそう)、また赤城山人を号する。嘉興府海塩県の人。

代々儒学を生業とし、その父の胡彭述の蔵書は万巻を超えた[1]万暦25年(西暦1597年)の挙人、しばしば進士の試験を受けるも及第しなかった。故城教諭合肥県知県を歴任し、崇禎の末年、補って定州知州となり、兵部職方司員外郎に抜擢される。間もなく帰郷を願い家に籠もった。書を嗜むことが宿命であるかのように日夜倦まず精読し、近人の張元済はそれを「わが村一番の読書人士」であると誉めた。一生涯の著述は幅広く豊富で、著には『赤城山人稿』・『読書雑記』・『海塩県図経』・『李詩通』・『杜詩通』・『唐音統籤』等がある。[2]

『唐音統籤』一書は、明代唐詩研究諸学者の地位を定め、全書総1033巻、十干を順序とし、『甲籤』から『壬籤』まで、幅広く豊富に網羅し、時間の前後を勘案しつつ、唐代から五代に至るまで300余年間の詩作や、詞曲諺語酒令等に及ぶ収録で、これは胡の唐詩研究の総括であり、また詩人の遺聞逸事を採集し、小註に附して入れつつ、出処・版本を註して明らかにしている。『唐音統籤』及び季振宜の『唐詩』は、康煕年間の『全唐詩』編纂の種本となった。また唐の韓鄂の『歳華紀路』を刻した[3]。胡震亨の没後、子孫・後人は『唐音統籤』全書の刊行普及を努めて図ったが、巻帙の繁多によって、清の終局の世まで願い通りにゆかず、わずかに『唐音癸籤』33巻が最初に刊行が成り、かつ内容が精緻であるため、今に至るまで単一で世間に行われ得ている。

脚注

注釈

    出典

    1. 『好古堂書目序』に云う、「予が家 世〻(よよ)塾師たり、誠斎府君より仰厓府君に迄(いた)るまで凡そ四世、隠顕 同じからずと雖も、而(しこう)して其の雅好 均しく張華に類(たぐ)いす。故を以て蔵書 幾(ほとん)ど万巻に至り、亦た盛(ふ)えりと云う。(“予家世為塾師,自誠齋府君迄仰厓府君凡四世,雖隠顯不同,而其雅好均類於張華,以故藏書幾至萬卷,亦云盛矣。”)」
    2. 『分甘余話』に云う、「海塩の胡震亨 孝轅 唐詩統籤(とうしとうせん)を輯(あつ)む(“海鹽胡震亨孝轅輯唐詩統籤。”)」。盛楓の『嘉禾徴献録』巻24、「胡彭述 少(わか)くして孤、母に事(つか)えて孝、書を蔵することを好み、『好古堂書目』有り。子の震亨 字は君鬯、一に字は孝轅、晩(おく)れて号して遯叟。才識通敏、書に於て読まざる所無し。〔略〕唐人の詩集の天下を衣被(いひ)する能(あた)わざるを病(や)み、乃ち悉(ことごと)く捜録し、編みて十籤(じっせん)と為し、『唐音統籤(とうおんとうせん)』と曰(い)い、世に行わる。又た著は『海塩図経』『靖康資鑑録』及び『赤城山人集』。子の夏客も亦た英敏にして学を好む(“胡彭述少孤,事母孝,好藏書,有《好古堂書目》。子震亨字君鬯,一字孝轅,晩號遯叟。才識通敏,於書無所不讀。(略)病唐人詩集不能衣被天下,乃悉搜録,編為十籤,曰《唐音統籤》,行於世。又著《海鹽圖經》《靖康資鑑録》及《赤城山人集》。子夏客亦英敏好學。”)」
    3. 『居易録』に云う、「万暦間の学士、多く僞書を撰して以て世を欺く。今の類書中の刻する所の唐の韓鄂『歳華紀路』は、乃ち海塩の胡震亨 孝轅の造る所(“萬暦間學士,多撰僞書以欺世。今類書中所刻唐韓鄂《歳華紀路》,乃海鹽胡震亨孝轅所造。”)」
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