皆川正禧

皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年明治10年) - 1949年昭和24年))は、日本英文学者翻訳家教育者。雅号は真拆。

経歴

1877年(明治10年)、福島県会津(現在は新潟県東蒲原郡阿賀町)に生まれる。皆川家は、土地の旧家で総鎮守西村八幡宮神宮を務めていた大地主だったという。 1900年(明治33年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科入学。小泉八雲の講義を2年半受ける。正禧が八雲の講義を筆記したノートが10冊残されており、1904年(明治37年)11月の『帝国文学』で追悼特集(八雲は9月に逝去)が組まれたとき、正禧は「蓬莱」という追悼文を寄せている[1]

1903年(明治36年)、最上級生のとき、八雲の後任として夏目漱石が赴任し、卒業までの三ヶ月間、「文学の一般概念」という講義を行った。その講義録は漱石の生前に公表されることはなかったが、正禧は小松武治吉松武通野間真綱と彼自身の講義ノートを整理して1924年大正13年)、『英文学形式論』と題して岩波書店から刊行した[2]

なお、八雲の講義が学生の間で絶大な人気を博していたのに対し、当時の漱石の講義は不評であったことを、正禧は『英文学形式論』の「はしがき」で記している。ただ、同級の野間(第五高等学校時代から漱石の教え子であった)と親友だったこともあり、卒業後も漱石との交流が続いた[3]1905年(明治38年)から、漱石宅で毎月、文章会が開かれていたが、正禧はその常連であり[4]、そこで和歌や俳体詩などの創作も試みて、『ホトトギス』に俳体詩「偶成」(1905年6月)、「散歩」(同年7月)を発表している。近藤哲は『吾輩は猫である』の越智東風など、漱石作品の登場人物の造形に正禧が関わっている可能性を指摘している[5]

1903年(明治36年)7月、大学卒業後、明治学院高等部に勤務。同年から、『帝国文学』に「まぜっぱ」(ジョージ・ゴードン・バイロンの物語詩の邦訳)などの翻訳を四編発表し、翌年から内外出版協会より『希臘勇士譚』(チャールズ・キングズリー)などの訳書を七冊刊行した[6]1908年(明治41年)、野間の誘いによって、第七高等学校に移る。1920年(大正9年)水戸高等学校教授となる。1929年(昭和4年)、水戸高校を退職した後、東京の私立大学等の講師を歴任し、1932年(昭和7年)から1944年(昭和19年)まで、法政大学高等師範科に勤務した[7]

編著

翻訳

  • チャールズ・キングズリー『希臘勇士譚 英和対訳 巻1(パァセアス物語)』(内外出版協会、1904年)
  • ロバート・グラント『如何にして生活すべきか』(内外出版協会、1906年
  • ヘレン・ケラー『わが生涯』(内外出版協会、1907年
  • ジョシア・ストロング『時勢と青年』(内外出版協会、1907年)
  • ハンナ・ホイットール・スミス『母の道 一名・小児の教育』(内外出版協会、1908年)
  • ワグネル物語』(内外出版協会、1908年)
  • ウィリアム・ゼー・シアラー『淑女の美徳』(内外出版協会、1909年
  • ジョージ・メレディス「シャグパットの毛剃」『ゴシック名訳集成暴夜(アラビア)幻想譚』 (学研M文庫―伝奇ノ匣、2005年)  ※初版はウォルター・ペイター「享楽主義者メイリアス」、下巻に併録(国民文庫刊行会 1927)
  • 『独逸古謡ニーベルンゲンの歌』(大智書房1943年

参考文献

  • 近藤哲『夏目激石と門下生・皆川正禧』(歴史春秋出版社2009年

出典

  1. 近藤哲『夏目激石と門下生・皆川正禧』(歴史春秋出版社、2009年)
  2. 近藤哲『夏目激石と門下生・皆川正禧』(歴史春秋出版社、2009年)
  3. 『夏目漱石周辺人物事典』(笠間書院、2014年)
  4. 夏目鏡子『漱石の思い出』(文芸春秋社、1994年)
  5. 近藤哲『夏目激石と門下生・皆川正禧』(歴史春秋出版社、2009年)
  6. 近藤哲『夏目激石と門下生・皆川正禧』(歴史春秋出版社、2009年)
  7. 『夏目漱石周辺人物事典』(笠間書院、2014年)
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.