江藤新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日1834年3月18日) - 明治7年(1874年4月13日)は、幕末から明治期の日本武士佐賀藩士)、政治家幼名恒太郎又蔵胤雄胤風とも、南白朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。

江藤 新平
えとう しんぺい
生年月日 1834年3月18日
天保5年2月9日
出生地 日本 肥前国佐賀郡八戸村
(現:佐賀県佐賀市八戸)
没年月日 (1874-04-13) 1874年4月13日(40歳没)
死没地 日本 東京府
出身校 弘道館
前職 武士佐賀藩士)
配偶者 江藤千代子
子女 江藤新作(二男)
親族 江藤胤光(父)
江藤夏雄(孫)
江藤小三郎(曾孫)
江藤兵部(曾孫)
江藤源九郎(甥)

初代 司法卿
在任期間 1872年5月31日 - 1873年10月25日

生涯

出生

肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩士江藤胤光[注釈 1]と妻・浅子の間に長男として生まれる。江藤氏は肥前小城郡晴気保の地頭九州千葉氏の遠祖である千葉常胤の末裔を称した[1]。父は「手明鑓」という身分の下級武士であったとされる。嘉永元年(1848年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となったため生活は困窮し外生課程に進学せずに弘道館教授で儒学国学者であった枝吉神陽の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。このころ新平は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。嘉永3年(1850年)に枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると、大隈重信副島種臣大木喬任島義勇らとともに参加した。

江戸時代後期の外国船の日本近海への出没やアメリカペリー艦隊やロシアプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、安政3年(1856年)、22歳の時に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆し、のちに政府に重用される。安政4年(1857年)に江口千代子と結婚[2]。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める。

志士活動

文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家姉小路公知らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。

15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行って幕府が消滅した慶応3年(1867年)の12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される。

戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言する。旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。明治2年(1869年)には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。

明治新政府の官吏として

戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台においては長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。7月には江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。

明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うがすぐに中央に呼び戻される。同年10月、日本最初の私擬憲法となる『国法会議案、附国法私議』を起草し、同年11月、太政官中弁となる。12月、虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷した。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する。近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。江藤は「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」[3]というほどフランス民法典を高く評価し、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒め、以下のような漢詩を残している。

廟堂用善無漢蕃 廟堂善を用いるに 漢蕃無し

孛国勢振仏国蹲 孛国勢い振るいて 仏国蹲(うずくま)る  (※最初の漢字は『字の上に十』。 [JIS] 5556 )

仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も 其の法美なり

哲人不惑敗成痕 哲人惑わず 敗成の痕

もっとも、実際にどの程度徹底したかは問題であり、

  • 「誤訳もまた妨げず、ただ速訳せよ」発言は、初出が伝記作者的野半介による情報源不明の伝聞に依るもので、信憑性は不明[4]
  • あくまで「我国に行ひ難き条項を除き」箕作に翻訳させた仏民法典を日本民法にしようというものであった[5]
  • 最初の草案においてもフランス国外在住の兵士についての規定は採用されず、華族についての規定も若干あり、この時点でも文字通りの直訳ではない[6]
  • 司法卿時代の江藤は、制度局時代に比べ仏法の導入に若干慎重な態度を見せていた[7]
  • 単独相続制が日本の現状に適すると考えており、フランス相続法には反対であった[8]
  • 井上毅らをヨーロッパに派遣するにあたって、西欧の法制に対する選択的接近を訓示していた[9]
  • そもそもフランス民法典にも非近代的・不合理な規定はあり、そのまま日本に施行しなかったのは当然だった[10]

ことが指摘されている(民法典論争#旧民法以前の編纂事業参照)。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・四民平等警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務定制・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥山縣有朋が関わったとされる山城屋事件井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だがその一方で、急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省井上馨との確執を招いた。

下野から佐賀の乱(佐賀戦争)まで

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。明治7年(1874年1月10日に愛国公党を結成し1月12日民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは、江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌(はま)るものであることを看破し、慰留の説得を試みる。しかし江藤はこれには全く耳を貸さず、1月13日に船便で九州へ向かう。江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着き、しばらく様子を見ることになる。この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村高俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日鹿児島鰻温泉福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて飫肥小倉処平の救けで高知へ行き、3月25日、高知の林有造片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

裁判とその最期

画像外部リンク
閲覧注意
獄門に処せられた江藤新平
江藤新平の墓所、佐賀市の本行寺

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれることとなった。河野は江藤を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。 4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され[注釈 2]、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。これらはすべて法律を無視した私刑であった。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた[注釈 3]。その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

この裁判について、巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、河野自身は晩年になって立憲改進党掌事の牟田口元学に自身の行動に関する弁明を試みている。

辞世は、

「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。墓所は佐賀県佐賀市本行寺墓碑銘書家としても知られる副島種臣が手がけた。同市の神野公園には銅像もある。

逸話

  • 江藤は藩校の弘道館に入学した頃、髪の毛はぼさぼさでぼろぼろの服を着ていた。女中がひやかそうとすると高い声で書物を読み上げ、驚かせたという。
  • 明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。
  • 江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。他方、外交については積極的な対外進出を主張しており、明治4年(1871年)3月に岩倉具視に提出した意見書には清をロシアとともに攻めて占領し、機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。
  • 自分が低い身分から起ったので、司法卿に栄進しても少しも尊大ぶらず、面会を求むる書生は誰でも引見し、その才幹を認むれば直ぐにも登用した。それ故、郷国の官途につこうとする者は、先ず江藤を訪い、志望を述べ採用を頼むので、その私邸にも役所にも常に一二人の訪問者が絶えなかったと言われる。新平はこれ等の人を引見しては、先ず先に『貴公は本を読むか』と尋ねる。読みますと答えると、『どういう種類を読むか』と反問して、その答えに依りてその人物を察し、登用の程度を決めたそうである。まだ第二の試験方法としては、政治法律上の問題をあたえて、これについて意見を書いて来いと言い、論文を徴するか、または直に論題を提出して、その議論を聴取するのが例であった。この試験に及第しさえすれば、即日にも採用するが、もしこれに落第した者は如何なる情実があろうが、決して用いる事はなかった。ゆえに江藤の登用した人物には、一人として無能おらず、適材を置くの主義で、皆一廉の働きを現した。[11]
  • 江藤は読書を生命としていた。いかなる任務中にあっても、卓上常に五六冊の書籍が無かったことはない。用務が小閑なれば、その間を盗んでは書見していた。これはいつものことで、属僚がたまたまその室に入る時は、必ず書見に耽っておる時で、江藤は本を卓上に伏せ、何の用かと顧み問うが常であった。その勉強には感服せぬ者が無かったという。[12]
  • 真崎秀郡 「少年の折、片田舎にて江藤に行き遇う。江藤曰く『真崎サン、近頃ハ本読ドルカ』と。真崎答えて曰く『イヤ学者ニナルト皆馬鹿ニナル様デスカラ本ハ悉皆クレテ仕舞ッテ読マンコトニシマシタ』と。江藤曰く『ソレハイカヌ。三国志デモ漢楚軍談デモヨイカラ本ハ御読ミナサイ』といって別れたり。後年江藤益々の出世、参議の折上京、久し振りにて江藤を訪う。この頃の江藤は飛ぶ鳥も落とすという勢いにて、多忙を極めおる時節ゆえ、多分不在ならんと考えながら訪問せしに、在宅なりとの事ゆえ、心易きままに直に上座何れに在りやを問えば、奥の書斎に在りという。到れば江藤は専心読書し、人の来るも知らざる様子なりき。この時、片田舎における忠告の親切を痛感す」[13]
  • 時のフランス公使が本所の近くで猟をしていた時に、誤って畑に出ていた農夫に弾丸が当り、即死した。直ぐ羅卒が公使とは知らずに屯所に引致したが、取調べ中その公使は逆に引致した無礼を怒り、外務卿を呼べ、このような公使を引致するような野蛮国には居られぬから帰国すると騒ぎ立てた。この問題について会議が行われたとき、西郷隆盛がこうなっては仕方が無いから、その引致した羅卒に切腹せしめて謝罪しようといいだすと、江藤司法卿は、『それはもってのほかである。羅卒の行為は職務を執行したので、更に落度は無い。いかに謝罪のためとはいえ、罪無き羅卒に死を命ずるは法の表に背く。これは本官の職掌であるから、万事一任されたい。自ら公使を訪うて談判をいたそう』と引き受け、すぐ横浜に出張して公使に面会し、『公使と知らずして無礼を働いた羅卒は貴官が気の済むように処分するが、貴官もまた過失殺傷の罪に問うて宜しいか。それとも互いに譲歩して、我も貴官を法に問わぬ代わりに帰国を思い止らるるか』と義理明白に説いたので、公使も意を和らげ、却って過失を謝して事は無事に済んだ。[14]
  • 安居積蔵 「其宣告文を読み上る間は、君も相当の敬意を法廷に表し、首を少しく俯して居たが、『梟首申付る』と読み終るや、君は猛然として面を抬げ、唯『私は』と大喝するや否や、無情の廷丁は屹立せる君の体躯を無二無三に手取り足取り、廷外に担ぎ出した。其時、君の顔色の凄じかりしことや、その肺腑を絞り出した『私は』の一声は雷の如く、其顔色と其声は、今も尚、ありありと耳目に残って居る程である。夫れから彼の飛上ったとか、腰が立たぬとか言う諸説は、君の此行為を、遠距離から窺うて、面を抬げた姿勢を飛上ったと思い、又廷丁の君を擁して引出したる体をみて、斯く想像した者があったのであろうと推定する。此事実は、特に君の為めに、其の死後に於ける名誉上の汚点を雪ぎ置くのである」[15]
  • 江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。そのため、県庁が柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという
  • 1873年(明治6年)2月8日東京押上の土手において放屁した女を邏卒が連行し、罰金75銭を支払わせた。これに憤慨した女は罰金額が法外であるとして警視庁に抗議。1872年(明治5年)の東京違式詿違条例では立小便や落書きといった現在の軽犯罪にあたる行為などを規制していたが、放屁に関する規定はなく罰金刑は不当なものであった。このことは当時の新聞で議論を呼び、放屁の規制も条例に加えるべきとする意見と生理現象であり規制すべきでないとする意見とに分かれた。のちに司法卿の江藤は通達を出し、放屁は規制の対象外として罰金も返還された。また、当時開業したばかりの鉄道では客車内での放屁に罰金を科す旨の掲示があった。
  • 曾孫の江藤兵部は小学生時代、第二次世界大戦後に至っても「逆賊の子孫」といわれ、肩身の狭い思いをしたという[16]

評価

  • 鍋島閑叟 「彼は異日有用の器たり。之を斬に処せしむべからず」
  • 大久保利通 「江藤が自ら作る所の新律に罪按せられたるは、そのすこぶる秦の商鞅と相似たり。予は江藤の刑名家たるを知る。その弁論の精悍なる、立法の技量に富める、真に商鞅の流亜なり。否あるいは之に駕するものあらん。然れどもまた及ばざる所あり。およそ人自ら固く信ずる所ありて、事を成すも失敗すること少なからず。いわんや自ら信ぜず、徒に人をして信ぜしめんとするにおいて、失敗なきを得んや。江藤の兵を挙げたるは、天下に一信無くして失敗せしなり。彼が兵に将たる能わざるは、自ら能く之を知る。しかして彼が江藤さえ兵を挙げたりとて、天下の人をして之に応ぜしめんと図りしは、拙策なりと為さざる可からず」[17]
  • 板垣退助 「かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずして、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして正なる点に在り。言を換ゆれば、江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍を買うに至りし也」[18]
  • 大隈重信 「之(江藤)を失ったる国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」[19]
  • 副島種臣 「江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。そこで初めは人に重く見られなかった。その頭角を現したるは維新後である。自分は中野芳蔵から、初めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる卓越しておる。それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するようになり、次第に引き立てられたのである。頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。江藤がかつて自分にいうたには、『私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつも三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い』と話したことがある。それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう」[20]
  • 松岡康毅 「当時、弁舌家では陸奥宗光などは台閣中のもっともなるものであったが、それでも江藤に比べれば弁論の重みが違う。かつ條理が明らかで、人を屈服する力があった」[21]
  • 土方久元
    • 「我、維新前後の人物とは知人多し。しかし就中自分が真に豪傑と思う者は西郷南州と江藤新平と二人しかおらぬ」[22]
    • 「意気豪邁、議論精確、和漢上下古今に出入りす。抱負の大なること測る可からざる者有り」
  • 渋沢栄一
    • 「学問があってよく物を知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も著しい例は、佐賀の乱で刑死した江藤新平である」
    • 「実に何でもよく物を知ってた方で、これには私も始終驚かされてばかりおったものだ。江藤氏は佐賀の枝吉神陽に経世学を学んだものということである。経世学者であったので、礼のことなぞは一向頓着無く、如何に他人が迷惑しようが一切かまわず、やたらに自分の無理を通そうとした人である。それがためには、好んで理屈をこねくり回したりなどもしたものだ。遂にあんな最後を遂げられたのもこれが原因であろうと思われる」[23]
    • 「江藤氏はいったん自分がいい出したことは、いかなる場合にも押し通そうとし、腕力に訴えてまでも他人と争い、無理にも自分の意見を行おうとされたもので、時期の到来を待つとか、他人の意見を容れようなどということはまったくなかった方である。大西郷や木戸公などがとても仁愛に富んだ方であったが、江藤氏はこれと正反対でむしろ残忍に傾く性格の持ち主だった。江藤氏は人に接すれば、まず何よりも先にその人の邪悪な点を見抜くように努められ、人の長所を見ることなどは後回しにされたようである。いや、極端にいえば人の長所はほとんどかえりみなかったといっともよいくらいであった。あの佐賀の乱なども、はじめから起こすつもりはなかったろうが、目的のためには手段を選ばぬという主義であったため、ついいつの間にか知らず知らず邪道に踏み込んであんなことになったのであろうと思う。江藤氏のごとき傑出した人物に、このような欠点のあったことは、誠に惜しむべきであったと思う」[24]
  • 勝海舟 「あれは驚いた才物だよ。しかし、ピリピリしておって、実に危ないよ」

家族

資料・関連文献

伝記研究

脚注

注釈

  1. 江藤助右衛門道胤 ━ ■ ━ 江藤惣次郎江藤助右衛門江藤助右衛門道員胤光 と続く。
  2. 礼遇の慣習により武士を梟首にすることは出来なかったため、まず士族の地位を剥奪する必要があった。
  3. 大久保利通は日記(4月13日付)において、江藤について「今朝江藤、島(義勇)以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜態笑止なり。朝倉香月山中らは賊中の男子と見えたり」と記している。

出典

  1. 『姓氏』(丹羽基二/樋口清之秋田書店1970年)のp86.によると、江藤氏は肥前国佐賀郡江藤郷から興ったという。
  2. アニメーション「新・江藤新平伝」(江口千代子)
  3. 的野半介『江藤南白 下』、民友社、1914年、107、108頁
  4. 坂本慶一『民法編纂と明治維新』、悠々社、2004年、333頁
  5. 今村和郎(中隠居士)「解難」、出版者長尾景弼、1890年、2頁
  6. 石井良助『民法典の編纂』、創文社、1979年、23頁
  7. 星野通『明治民法編纂研究史』、ダイヤモンド社、1943年、20頁
  8. 福島正夫著、吉井蒼生夫編『福島正夫著作集 第1巻』、勁草書房、1993年、239頁
  9. 坂井雄吉『井上毅と明治国家』東京大学出版会、1983年、76頁
  10. 北村一郎編『フランス民法典の200年』、有斐閣、2006年、9-13頁
  11. 『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  12. 『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  13. 『佐賀先覚遺聞』 向井弥一著 大正15年
  14. 『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  15. 『梟せられし司法卿』
  16. 「逆賊の子孫」と呼ばれた江藤新平のひ孫 再評価に喜び 2018年1月22日 10時13分 - 『朝日新聞
  17. 『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  18. 『江藤南白』的野半介
  19. 『大隈候昔日談』
  20. 『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  21. 『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9
  22. 『佐賀先覚遺聞』 向井弥一著 大正15年
  23. 『処世の大道』P558
  24. 『論語講義』

関連作品

小説
ドラマ

外部リンク

公職
先代:
(新設)
左院副議長
1871年 - 1872年
次代:
伊地知正治
先代:
(新設)
文部大輔
1871年
次代:
(欠員→)福岡孝弟
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.