柳生厳勝

柳生 厳勝(やぎゅう としかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士通称は新次郎[1]新陰流の剣豪・柳生宗厳の長男。尾張柳生初代柳生利厳の父として知られる。

 
凡例
柳生 厳勝
時代 戦国時代-江戸時代初期
生誕 天文21年(1552年
死没 元和2年4月5日1616年5月20日
別名 新次郎
幕府 室町幕府江戸幕府
氏族 柳生氏
父母 父:柳生宗厳(石舟斎)
母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)
兄弟 厳勝、久斎、徳斎、宗章宗矩
久三郎、利厳、権右衛門、森嶋市助室、山崎勘左衛門室、柳生主馬室

概略

尾張藩の史料を編纂した『名古屋市史』では、厳勝について「浮田和泉守の小姓となり、400石を得たが、16歳の時の初陣で銃傷を負ったために、廃人になり柳生庄に戻った」とする[2]。しかし永禄11年(1568年)頃に織田家の重臣柴田勝家が柳生家に宛てた5月16日付の書簡で、厳勝は宗厳の主君松永久秀の居城・多聞山城で、父と共に勝家と面会したことが記されており[3]、この時点では久秀の家臣として活動している。

厳勝の子孫である柳生厳長や柳生家の史料を編纂した体育学者の今村嘉雄は、『多聞院日記元亀2年(1571年)8月の記事に、松永久秀と 筒井順慶の戦いで、「柳生息」 (宗厳の子) が負傷したとあることから、『名古屋市史』にある「銃傷を受けて廃人になった」原因をこの傷と解釈し、これ以降柳生庄に隠れ住んでいたとする[4][5]

一方で『柳生藩旧記』をはじめとする江戸柳生の家譜や幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』では、厳勝について「筒井順慶 に属して 柳生の庄を領有したが、何らかの事情があって本領を去り、他国を遍歴したのち旅先で客死した。そのため宗矩が家督を継いだ」[6][7]と記述している。天正5年(1577年)に柳生家の主君・松永久秀が滅び、大和一円を長年柳生家と敵対していた筒井順慶が支配する体制となった後も、厳勝は父と共に柳生庄で暮らしていることから、松永氏の滅亡後は、厳勝が順慶に仕えて所領を保ったという見方もある[8]。しかし『柳生藩旧記』等の史料後半に記述された「厳勝が柳生を離れて客死したために、宗矩が家督を継いだ」という部分については、天正5年以降に厳勝に長男・久三郎をはじめ三男三女が生まれていることから、今村嘉雄は多くの子供を養育しながらの旅は現実的でないとして、否定している[9]。 

若い時に身体に障害を負ったともされる厳勝だが、文禄5年(1596年)8月、57歳の折に父・宗厳の兄弟子である疋田景兼より新陰流の口伝を受けており、この時景兼が書き残したとされる「文禄五年八月廿四日 疋田豊五郎入道栖雲斎 柳生新次郎殿」という自筆の表書が残る[10]。慶長11年(1606年)2月には晩年の父・宗厳より「残す無く相続せしめ」として皆伝印可を受けている[11]

同年4月に父・宗厳死去。家督は本領2千石と共に徳川家に仕えた末弟・宗矩が継いだとされるが、厳勝の子孫である柳生厳長は『正傳新陰流』において自家には、この時家督は厳勝が継いだという伝承があるとする[12]

元和2年(1616年)4月5日死去。柳生厳長は、この時厳勝の残した所領を宗矩が利厳に渡さずに独占したことが、以後両家不和となり断交する要因となったとする。

子孫

長男久三郎は祖父宗厳に剣を学び、浅野幸長に5百石で仕えたが慶長2年(1597年)2月21日、朝鮮蔚山にて弱冠21歳で戦死したという[13]。三男・権右衛門は元和2年(1616年土御門左衛門の取次により伊達政宗に知行六拾貫四百拾七文を以て仕えた[14]

次男利厳は祖父宗厳より、祖父が師・上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切と共に相伝を受け[15]、元和元年(1615年)に尾張徳川家に5百石で出仕し、藩主・徳川義直に兵法を伝授した。利厳以降も柳生家は代々藩主の師範を務めて「御流儀」と賞され[2]現代にいたるまで新陰流の普及を続けている。

系譜

  • 父:柳生宗厳(1527-1606)
  • 母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)
  • 正室:
    • 長男:柳生久三郎 (1577-1597)
    • 次男:柳生利厳(1579-1650)
    • 三男:柳生権右衛門(-1635)
    • 娘:森嶋市助室
    • 娘:山崎勘左衛門室
    • 娘:柳生主馬

出典

  1. 寛政重修諸家譜 pp.297-298
  2. 名古屋市史人物編 下巻。pp.25-28
  3. 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『柴田勝家書状』(年次不詳、5月16日付、柳生但馬守宛)。該当箇所はp.292
  4. 今村嘉雄1994。p.46
  5. 柳生厳長1957 p77
  6. 今村嘉雄1994。p.54
  7. 寛政重修諸家譜 17巻。該当箇所はp.298
  8. 高柳光寿1962 p.167
  9. 今村嘉雄1994。p.54
  10. 柳生厳長1957 p70-71
  11. 柳生厳長1957 p.131
  12. 柳生厳長1957 p.135
  13. 今村嘉雄1994。p.55
  14. 仙台藩家臣録 p.147
  15. 柳生厳長1957 pp.125-127

参考文献

  • 名古屋市役所『名古屋市史人物編 下巻』国書刊行会、1934年。
  • 高柳 光寿/他編輯『寛政重修諸家譜 17巻』続群書類従完成会、1981年。
  • 柳生厳長『正傳新陰流』大日本雄弁会講談社、1957年。
  • 今村嘉雄編輯『史料 柳生新陰流〈上巻〉』人物往来社、1967年。
  • 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜』新人物往来社、1994年。
  • 高柳光寿『戦国の人々』株式会社新紀元社、1962年。
  • 『寛政重修諸家譜 17巻』続群書類従完成会、1962年。
  • 佐々久監修『仙台藩家臣録』歴史図書社、1978年。
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