書経

書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人であるから王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている[1]。 『尚書』または単に『』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある[1]

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内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する[1]。 現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる[2]。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない[1]

名称

書経は、古くは『尚書』と呼ばれたが、明代あたりから『書経』といわれるようになり、現代も『書経』という名で呼ばれる。 名称の意味や変遷について研究者の説を下記に列挙する。

  • 古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた。
  • 『書』とは、「書かれたもの」「記録」という意味[1]
  • 『尚書』とは、「古代以来(尚)の記録」という意味[1][3]
  • 『尚書』とは、「上代の聖人賢人の言行を書いたもの」という意味。「尚」には「上」という字と同じ意味がある[4]
  • 『尚書』とは、上代の尚ぶべき書という意味[5][3]
  • 『書経』と名がつけられたのは漢代。その根拠は漢の武帝の時に、詩・書・春秋・易・禮の五つを学問上の最も重要な書物とし、総称して「五経」とし、五経博士が立てられ、これ以降「経」は聖人賢人の教えを書いたものという意味で用いられるようになったからである。もともと「経」には「常」という意味があり、聖人賢人の教えは時が経っても変わらないものであるという意味であるという。[6]
  • 『書経』とは、聖人の定法という意味。「書」は記すことで、「経」は「常」という意味[3]
  • 『書経』の名が一般化するのは宋代以降である。

成立と伝来

成立

『書経』には穆公の記載があるため、成立は早くとも秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。 さらに、書経の中の『洪範』で記されている政治学は五行説が基になっており、五行説の成立は戦国時代であることから、成立年代は早くとも戦国時代(紀元前5世紀以降)までに限られる[7]

また、書経の中の「堯典」の名が、孟子の書で言及されていることから遅くとも孟子が死亡する紀元前283年までに成立していたことになる[8]

古来の通説では孔子が、各国の史官が書き残した重要な出来事の記録およそ100篇を入手し、堯から秦の穆公まで取捨選択し編纂したことで成立したと考えられていた[9][5]。 しかし、孔子が編纂を行ったことと、その基となった資料の年代に疑義が唱えられている。

孔子による編纂

孔子が編纂したということについて、小林一郎は同じように孔子が編纂したと伝えられる詩経については、孔子自身もいろいろ語っていたことが論語に記録されているが、書経については孔子自身が何か語ったという記録が一切無い。 そのため、孔子が書経に手を加えたと言う証拠はなく、ただそういう言い伝えがあるに過ぎないとしている[10]

飯島忠夫は、史記の「孟子荀卿列伝」には、戦国時代の中期に孟子がその弟子とともに「序詩書」したと記してあることに着目し、「序」とは編纂の意義であるから、詩経・書経の編纂について問題となると指摘している[11]

原資料の年代

飯島忠夫は堯の時代(紀元前2000年代とされている)のことが記されている『堯典』に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した[7]

また、堯典には1年が366日であると記されているが、366日を1年とする暦法はこの記載があるだけで実際に適用された日付を持つ記載は皆無であることであるから、戦国時代初期の観測の結果制定された1年は365日と4分の1という暦法の概数を記載しているだけであるとする。 このことからも堯典は戦国時代以前にさかのぼることができない。

原典の散逸

先秦時代に伝えられていた書経は秦の始皇帝焚書坑儒により禁書とされ失われてしまった[4][5]。 わずかに他の儒教経伝や墨子をはじめとする諸子百家の書物、歴史書などに引用されている部分が今に伝わるのみであった。

今文尚書

漢の時代になると再び学問が復興し、失われた書経が再発見された[4]。 再発見の1つは秦の博士だった伏生(伏勝)が壁の中に隠しておいた29篇である[5]。これはその時(漢の時代)に使用されていた字体である隷書体で書き直された[12]ため「今文尚書」(きんぶんしょうしょ)と呼ばれる[1]

今文尚書は、やがてにおいて伏生から欧陽生(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽高(欧陽和伯の曾孫)・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(小夏侯)の三家に分かれた。武帝の時には欧陽氏本に対して学官に立てられ、宣帝の時、三家とも学官に立てられた。それぞれ29篇であり、伏氏本に「太誓」1篇が加えられて29篇となった。また文帝の時、詔して鼂錯を伏生(当時90余歳)のもとに派遣し、『尚書』を受けさせている。これが他の3本とどう関わるかは定かではない。

後漢でも十四博士として三家が続けられたが、その後は古文学が隆盛して振るわなかった。

なお残片が少し残っている後漢の熹平石経のテキストは欧陽氏本と考えられている。

古文尚書

漢の景帝の時、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊してたくさんの古典籍を発見した。これには書経も含まれており[1][6]、先秦時代に使われていた蝌蚪文字(かともじ、科斗)で記載されていたため、この書経を「古文尚書」(こぶんしょうしょ)と言う[12]。全部で58篇あり、今文尚書にないものが16篇あった[5]

孔子の旧宅の壁の中から古文で書かれた書経が発見されたことは、劉歆の「移太常博士書」(『漢書』楚元王伝所収)に記載されており、これによると、魯国の恭王劉余がの旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から古文による先秦書籍を得て、天漢中には孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある[13]。壁の中から発見された古文なので、これを壁中古文本とも呼ぶ。

この古文尚書は、普及しないまま西晋時代に永嘉の乱によって他の古文書と共に失われてしまった[5][1]

漢代には、この壁中古文本の他にも、古文で書かれた書経の発見の記録があり、上で紹介した古文尚書と関係する可能性もあるが、不明な点もなお多い。その例を以下に列挙する。

  • 孔安国伝本 - 司馬遷の『史記』儒林伝の記載によると、孔子の家に伝えられた『尚書』があり、孔子10世孫の孔安国今文に読み替えたところ、「今文尚書」にない十余篇があったという[14]。上述の「移太常博士書」や、『漢書』藝文志では、壁中古文本と同一視されている[15]
  • 中古文 - 宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」。班固の『漢書芸文志の記載によると、劉向が「中古文」で欧陽氏、大小夏侯氏の「今文尚書」を校訂したところ、竹簡の脱落が「酒誥」篇に一簡、「召誥」篇に二簡あったという[16]
  • 河間献王本 - 河間献王劉徳が伝えた「古文尚書」。『漢書』景十三王伝の記載によると、河間献王は古典収集を好み、その集めた書物は『周官』『』『礼記』『孟子』『老子』などであったという[17]
  • 張覇百両篇 - 『漢書』儒林伝の記載によると、世間に伝わっていた102篇の「古文尚書」というものがあり、張覇が伝えたものであった。成帝の時、それを求めて宮中の尚書と比べたところ偽書であったという[18]
  • 杜林漆書古文本 - 後漢杜林が伝えた「古文尚書」。『後漢書』杜林伝の記載によると、新末後漢初、杜林は西州隗囂の軍閥政権があった)に居たときに漆で書かれた「古文尚書」を得たという。ただし、壁中古文本のように逸書はなく、「今文尚書」と同じ29篇であった。このため杜林本は「今文尚書」を古い字体に故意に書き換えただけのものだとの指摘がある。杜林本には衛宏が『訓旨』を、徐巡が『音』を、賈逵が『訓』を、馬融が『伝』を、盧植が『章句』を、鄭玄が『注解』を作った[19]

古文経伝に依拠した古文学において「古文尚書」は、前漢末から後漢前期の劉歆班固らには壁中古文本として扱われていたが、後漢後期の鄭玄らになると杜林漆書古文本を指すようになっていったと考えられる。 壁中古文本などは早いうちに隷書体に書き換えられたのであるから、そこで問題にされているのは「今文尚書」にない逸書があること、つまりテキストの違いであるが、漆書古文本は「今文尚書」とテキストとしては同じであるから、問題にされているのは文字の字体や用字の違いである。 許慎が『説文解字』で今文(隷書)を斥けて篆書古文による漢字分析を行ったことや古文篆書隷書三体の石経を作ったことに後漢後期からの「古文」観が見てとれる。結局、壁中古文本にあった逸書16篇に注がつけられることはなく、「今文尚書」と同じ29篇のみが行われた。

残片が発見されている三体石経のテキストは、杜林漆書古文本と考えられる。

偽古文尚書

古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した[20]。後に偽作であることが判明している[2]ので、現在ではこの書経は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる。 この偽古文尚書は世の信頼を集め、孔穎達の『五経正義』の底本となって、後世に長く伝わるものとなった[2]

この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。

この梅賾本は東晋で早速、学官に立てられ、その後特に南朝において中心的に受容された。やがて「偽古文尚書」と「偽孔伝」に注釈をつけた費甝(ひかん)の義疏が、北朝劉焯劉炫によって受容され、『尚書述議』が編まれた[21]。これを踏まえて作られたの『五経正義』の『尚書正義』で、偽古文尚書と偽孔伝が用いられることとなった。

唐の玄宗天宝3載(744年)、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている書経は、このときの改訂を経たものである[2]

しかし、新出の25篇は他の諸篇と文体が大分異なり、言葉に大分飾りがあり文体が新しかったため、偽作したものではないかと言う議論で古来から多くの学者の論争があった[22]南宋呉棫[23]によって懐疑が起こされ、元代呉澄明代梅鷟(ばいさく)が初歩的な論証を行った。そして、閻若璩(えんじゃくきょ)が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した[2]

このように梅賾が発見した古文尚書は偽作であるが、まったく価値のないものではない。 その資料は古文に散見するものを収録してあるから、古代資料としての真を伝えるものとして価値がある[2]

その内容についても、小林一郎は経典として一向に差支えがないとしている。その理由として、たとえば仏教の経典はお釈迦様が自分で書いたものでもなければ、教えを聞いた者がその場で筆記したものでもなく、ただ多くの人々が語り伝えたものを、お釈迦様が亡くなってから300年も500年も経って集めて書いたのであるが、その内容が尊いものであるから価値があるのであり、偽古文尚書についてもこれと同じであるとしている[22]

清華簡

2008年に清華大学が入手した『清華簡』と呼ばれる戦国時代の竹簡には、書経の多くの篇が含まれており焚書坑儒以前の写本であるとされている。 その中には現代に伝わっている書経に存在する篇もあるが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文尚書(後述)の「説命」とはまったく異なる。

今までに整理された清華簡のうち、古代の失われた書経の一部である可能性があるものは「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」である。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、偽古文尚書ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている[24]

日本との関係

書経が我が国に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる[2]

日本の元号

昭和平成さらには明和を始め35個の日本の元号は、この書が由来になっている。なお、「平成」の決定の際には、専門家から出典箇所が偽書の偽古文尚書であり、相応しくないとする意見もあった。

森鷗外は最晩年、候補・典拠の一覧になった『元号考』(『鴎外全集 第20巻』岩波書店、所収)を作成したが、「平成」も既に江戸末期に「明治」等と並んで候補に上っている。鴎外は没した際『元号考』は未完だったので、親友吉田増蔵が、本人から依託され完成させた。なお吉田が改元に際し候補として「昭和」を勘申している。

日本の国宝

  • 古文尚書巻第六 - 1巻/紙本墨書/縦26.0cm 全長328.0cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東京国立博物館
  • 古文尚書巻第三、第五、第十二 - 1巻/紙本墨書/縦26.7cm 全長1138cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東洋文庫

これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。

所々隷書体が使われており、いわゆる「隷古定尚書」と考えられている。「隷古定」とは「偽古文尚書」が生んだ字体で古文を隷書で写し取ったとされるものである。独特で奇怪な字体なので一般に「隷古奇字」ともいわれる。唐の玄宗天宝初年に『尚書』の字体をすべて楷書に改めさせたのでそれ以後は使われていない。

他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている文字が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。

南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。

体裁

『書経』にはその体裁によって以下のようなものがある。

  • (こう) - 君主の臣下に対する言葉
  • (ぼ) - 臣下の君主に対する言葉
  • - 君主が民衆に対する宣誓の言葉
  • - 冊命(さくめい)あるいは君主の命令の言葉
  • - 重要な歴史的事件のあらましが書かれたもの

また人名や内容によって篇名が付けられたものもある。

清華簡中の『尚書』

2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)ののものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる。

2009年4月現在、清華簡はその13が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。

今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている[25]

構成

『書経』は時代順に並べられ、虞書夏書商書周書に分けられる。現行の「偽古文尚書」と伏生伝「今文尚書」28篇を比べると以下のようになる。

-偽古文尚書今文尚書
虞書1堯典1堯典
2舜典
3大禹謨--
4皋陶謨2皋陶謨
5益稷
夏書6禹貢3禹貢
7甘誓4甘誓
8五子之歌--
9胤征--
商書10湯誓5湯誓
11仲虺之誥--
12湯誥--
13伊訓--
14太甲上--
15太甲中--
16太甲下--
17咸有一徳--
18盤庚上6盤庚
19盤庚中
20盤庚下
21説命上--
22説命中--
23説命下--
24高宗肜日7高宗肜日
25西伯戡黎8西伯戡黎
26微子9微子
周書27泰誓上--
28泰誓中--
29泰誓下--
30牧誓10牧誓
31武成--
32洪範11洪範
33旅獒--
34金縢12金縢
35大誥13大誥
36微子之命--
37康誥14康誥
38酒誥15酒誥
39梓材16梓材
40召誥17召誥
41洛誥18雒誥
42多士19多士
43無逸20毋逸
44君奭21君奭
45蔡仲之命--
46多方22多方
47立政23立政
48周官--
49君陳--
50顧命24顧命
51康王之誥
52畢命--
53君牙--
54冏命--
55呂刑26呂刑
56文侯之命27文侯之命
57費誓25鮮誓
58秦誓28秦誓

「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。

「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。

「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典…」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古…」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明…」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。

注釈

現在通行している『書経』の注釈には以下のものがある。

  • 『尚書正義』 - 偽孔伝・唐の孔穎達疏。唐の『五経正義』の一つ。13巻58篇。後に『十三経注疏』に入れられた(20巻58篇)。
  • 『書集伝』 - 南宋蔡沈撰。6巻58篇。蔡沈は朱熹の弟子であり、序には「堯典」「舜典」「皋陶謨」「大禹謨」に朱熹の校閲を受けたとある。科挙試験の教科書として取りあげられ、広く読まれた。「蔡伝」とも呼ばれる。
  • 『尚書今古文注疏』 - 孫星衍撰。もっぱら今文29篇について注釈し、偽孔伝を退け、漢代今文学古文学の注釈を集め清朝考証学の成果を集めて疏をつけたもの。22年もの時間を費やし完成させた。

全訳版

脚注

  1. 土屋裕史 1989, p. 58.
  2. 宮内庁書陵部 1960, p. 6.
  3. 林栄吉 1913, p. 161.
  4. 小林一郎 1938, p. 5.
  5. 宮内庁書陵部 1960, p. 5.
  6. 小林一郎 1938, p. 6.
  7. 飯島忠夫 1946, p. 82.
  8. 飯島忠夫 1946, p. 88.
  9. 小林一郎 193, p. 4.
  10. 小林一郎 1938, p. 4.
  11. 飯島忠夫 1946, p. 101.
  12. 小林一郎 1938, p. 7.
  13. 『漢書』楚元王傳「及魯恭王壞孔子宅,欲以為宮,而得古文於壞壁之中,逸禮有三十九,書十六篇。天漢之後,孔安國獻之,遭巫蠱倉卒之難,未及施行。」
  14. 『史記』儒林傳「孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。」
  15. 『漢書』藝文志「古文尚書者,出孔子壁中。武帝末,魯共王壞孔子宅,欲以廣其宮,而得古文尚書及禮記、論語、孝經凡數十篇,皆古字也。共王往入其宅,聞鼓琴瑟鍾磬之音,於是懼,乃止不壞。孔安國者,孔子後也,悉得其書,以考二十九篇,得多十六篇。安國獻之。遭巫蠱事,未列于學官。」
  16. 『漢書』藝文志「劉向以中古文校歐陽、大小夏侯三家經文,酒誥脫簡一,召誥脫簡二。」
  17. 『漢書』景十三王傳、河間獻王德「獻王所得書皆古文先秦舊書,周官、尚書、禮、禮記、孟子、老子之屬,皆經傳說記,七十子之徒所論。其學舉六藝,立毛氏詩、左氏春秋博士。修禮樂,被服儒術,造次必於儒者。山東諸儒多從而游。」
  18. 『漢書』儒林傳「世所傳百兩篇者,出東萊張霸,分析合二十九篇以為數十,又采左氏傳、書敍為作首尾,凡百二篇。篇或數簡,文意淺陋。成帝時求其古文者,霸以能為百兩徵,以中書校之,非是。霸辭受父,父有弟子尉氏樊並。時太中大夫平當、侍御史周敞勸上存之。後樊並謀反,乃黜其書。」
  19. 『後漢書』衛宏列傳「初,九江謝曼卿善毛詩,乃為其訓。宏從曼卿受學,因作毛詩序,善得風雅之旨,于今傳於世。後從大司空杜林更受古文尚書,為作訓旨。時濟南徐巡師事宏,後從林受學,亦以儒顯,由是古學大興。光武以為議郎。」、楊倫列傳「中興,北海牟融習大夏侯尚書,東海王良習小夏侯尚書,沛國桓榮習歐陽尚書。榮世習相傳授,東京最盛。扶風杜林傳古文尚書,林同郡賈逵為之作訓,馬融作傳,鄭玄注解,由是古文尚書遂顯于世。」
  20. 土屋裕史 1989, p. 59.
  21. 『北斉書』儒林傳「齊時,儒士罕傳尚書之業,徐遵明兼通之。遵明受業於屯留王聰,傳授浮陽李周仁及勃海張文敬、李鉉、河間權會,並鄭康成所注,非古文也。下里諸生,略不見孔氏注解。武平末,劉光伯、劉士元始得費甝義疏,乃留意焉。」
  22. 小林一郎 1938, p. 8.
  23. 呉棫『書稗伝』
  24. 李学勤 (2014-09-05), 清華簡再現《尚書》佚篇, 中国教育報, http://paper.jyb.cn/zgjyb/html/2014-09/05/content_422682.htm
  25. 李学勤 (2014-09-05), 清華簡再現《尚書》佚篇, 中国教育報, http://paper.jyb.cn/zgjyb/html/2014-09/05/content_422682.htm

参考文献

  • 土屋裕史『「当館所蔵漢籍の「宋版」及び「元版」の解題①」『北の丸』第43号』国立公文書館、2011年。
  • 宮内庁書陵部『「図書寮典籍解題. [第5] (漢籍篇)」』大蔵省印刷局、1960年。
  • 小林一郎『「経書大講. 第4巻 書經上」』平凡社、1938年。
  • 林栄吉『「書経講義」『易経書経講義』少年叢書漢文学講義』興文社、1913年。
  • 飯島忠夫『「古代世界文化と儒教」』中文館書店、1946年。
  • Martin Kern (editor) and Dirk Meyer (editor) (2017). Origins of Chinese Political Philosophy: Studies in the Composition and Thought of the Shangshu. Brill

外部リンク

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