安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。

概要

由来

織田信長の居城であった安土城滋賀県近江八幡市安土町)と豊臣秀吉の居城伏見城のあった京都市伏見区桃山地域から、このように歴史学者から呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化をられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので[1]、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。

そのため、歴史的経緯を尊重するなら「伏見時代」の方が適切な呼称となるが、そもそも安土城は完成からわずか3年余りしか存在しておらず、伏見城(指月城と木幡山城)についても文禄元年(1592年)の築城から秀吉の死までわずか7年であったなど、それぞれ在城は短期間であり、これらを時代の呼称に用いること自体が適切ではないという主張もある(ただし秀吉の死後、徳川家康が伏見城で政務を執っている)。

織田信長が岐阜城近江に在国した天下布武織田政権の安土時代と天下一統の武力で秀吉が全国統一した豊臣政権が統合した時期であるので、近年は織豊時代という呼び方も広まっている。

安土大坂時代天正時代大坂時代の呼称を提案する識者もいる。

ただし、大坂城についても、秀吉の関白就任後は朝廷への出仕の必要から天正15年(1587年)以降は京都に設置した聚楽第に居住していたため、実際の在城期間は伏見城よりも短い。

始期と終期

安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。

始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。

何れにしても、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。

美術史

美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。

それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。

当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。

だが豊臣家が滅亡した元和偃武以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し桂離宮などの瀟洒な数寄屋建築を生みだしたし、他方では日光東照宮や武家の御殿など豪華さを競うバロック的傾向を強めていった。

沿革

織田信長による政権の確立

戦国大名の中で織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した織田政権が始まった。武士を城下町に集める兵農分離楽市・楽座関所の廃止、など自治都市の支配や撰銭令など軍事機構改革や経済活性化の商業政策が実施された。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると[2]、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。天正7年(1579年)に信長の目前で浄土宗日蓮宗の仏教宗派の正義論を討論させる安土宗論を実施して敗北した日蓮宗を弾圧するなどの仏教政策があった。天正4年(1576年)に安土城が築城された。中世的な仏教権威などを否定した天下布武を唱えた岐阜城の城主時代から安土に居住して立派な天守閣を築城した。近江在国時代(安土時代)に畿内を中心に東海地方北陸地方などを支配する天下人(戦国時代の覇王)として君臨した。こうした中、信長の支配により平和を取り戻した京を中心に新たな文化が花開いていった。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧して天下統一は目前と思われたが、明智光秀による謀反によって天正10年(1582年)の本能寺の変で自害に至った。

豊臣秀吉による天下統一

鳥獣文様陣羽織 伝秀吉着用

本能寺の変に対して使者の情報で知った羽柴秀吉は、いち早く京に駆け付ける中国大返しで謀反の首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。織田秀信織田信雄の後見人として織田家臣団の領地を再編成した秀吉は清洲会議賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固めた。天正11年(1583年)には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り[3]、天正18年(1590年)に日本国内の全国統一を達成した。農民一揆を防止するため刀狩令を出した。加賀一向一揆の農民勢力鎮圧のための信長の刀狩の実績や高野山の寺院勢力を弱体化させた実績から全国の農民から武器を大量没収する武装解除政策の刀狩りが実施された。京都方広寺の大仏作りの口実で秀吉が刀狩を実施した。全国各地で太閤検地を行い石高制度を導入した。太閤検地は天正の石直しと呼ばれていて度量衝が統一された。文禄期に再度大規模検地があり1594年に文禄検地が実施された。現物納による二公一民の貢租の租税制度であり、検地帳が作成された。検地帳に記載された高持百姓は耕作権を認められていた。郷村の境界線を決める村割が実施された。村制度が創設されて村内自治の百姓身分の農民を武士身分の役人が支配する郷村制度が確立した。荘園制は完全に解体して在地土豪の支配は拒否されて複雑な職に租税システムを単一化して、一地一作人の原則が確立した。土地のデジタル化政策であったとされて田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量されて豊臣時代に村制度が成立した。秀吉は1592年(文禄元年)に人掃令を出して全国的な戸口調査を実施た。常備軍を創出するため1591年(天正19年)に身分統制令を出して兵農分離が推進された。城割りを実施して商人の城下町集住を推進して商農分離が進行した。[4]地方の小城を破壊して論功行賞を名目で転封を実施した。刀狩りの実施で寺社勢力や百姓農民を武装解除させて、豊臣政権の安定に力を注いだ。また、文禄元年(1592年)秀吉は、南蛮国(ポルトガルスペインなどカトリック教国)・伴天連国(英国和蘭などプロテスタント教国)のアジア侵略奴隷狩りに対抗するため、宣教師追放令海賊禁止令などの海外政策の法令を発令した。キリスト教を禁教とする殉教者26人の処刑処分や朱印船制度を創設した。同盟or征服の天下布武の原則に従い、の万暦帝に同盟の親書を送るが日本通信使の殺害で返答したので、大明帝國への天下布武を決断し文禄・慶長の役にて、大陸遠征軍を西国大名を主力に計画実行した。対馬宋氏による朝鮮王の秀吉への服従を確認し大阪城に朝鮮王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得た。しかし朝鮮王は同時に大明帝國へも服従し援軍の要請していた。明征伐遠征軍の西国大名は鉄砲大筒など集団戦法ですでに天下布武の実行経験者であり、大陸での占領地は全て所領として恩賞が約束されていたので、連戦連勝であった。しかし進軍先の朝鮮満州沿海州北京近郊は、農業には適さず狩猟地域で、農耕民族の西国大名には全く経済的魅力が無かったため、直ぐに厭戦気分が遠征軍に蔓延し、軍事力は占領した城地域にて大陸の風土民衆風俗経済など調査研究に向けられ、明帝国首都大都(北京)への進軍は全く行われなかった。この調査研究の結果、軍事物資・工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、技術者の希望を受け入れ、各大名の所領での帰化を許した。文禄・慶長の役で明征伐の遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力拡大に直結し、徳川家康の時代を迎えた。

一方、国内は天下統一による平和がもたらされたことから広域商業が発達して、博多長崎など主要商業都市を豊臣家の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、南蛮船(ポルトガル船)の種子島難破で鉄砲西洋から伝来し、武器奴隷を主力に南蛮貿易密貿易南蛮人・伴天連との交流が開始されて、最先端武器開発が日本各地で行われ、異人との貿易の主力が日本製鉄砲や火薬弾薬など武器になり、世界に輸出された。文禄・慶長の役での敗退で大明帝国は衰退し、従来の輸入品渡来銭銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨銀貨が製造されて国内に広く流通した。文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工など大陸技術は、帰化を許された氏達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。

豊臣時代の終結

慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、五大老の筆頭である徳川家康が頭角を現し朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が反発し慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり[5]江戸時代が始まった。

年表

桃山文化

織田信長時代と豊臣秀吉時代文化を秀吉の隠居所だった伏見城地名をとって、桃山文化と呼んでいる。桃山文化は日本史図録では仏教色が薄れて新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興大名豪商が桃山文化の中心だったとされる。[6]新興の武士勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、仏教色の少ない現世的な南蛮文化の影響を受けた文化である[7]。安土桃山時代には、都市部において、今井宗久博多島井宗室豪商と呼ばれる新興商人が成長した時代であった[8]

茶の湯が流行し、唐物名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど政治にも影響した。

特筆すべき点としては、『鉄炮記』に、天文12年8月25日1543年9月23日)、大隅国の種子島、西村の小浦に一艘の南蛮船(ポルトガル船)が漂着し鉄砲が日本に伝来。これにより天下統一は武器技術の面からも早められた。武器貿易で膨大な利益を得た南蛮国は、キリスト教を利用した植民地占領政策(キリスト信徒保護を理由に軍隊を派遣)と奴隷貿易を目指した。天文18年(1549年フランシスコ・ザビエルはインド植民地より派遣された。来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。キリスト教日本人信徒を利用した日本国占領計画は、日本は鉄砲保有数などにおいて軍事力が圧倒的に強力であり、キリスト教国の軍艦が援軍する以前に島原の乱程度で簡単に鎮圧された。

当時の世界アジア情勢と異なり、日本が初めて白人黒人をふくめた西洋文化と直接の(支那大陸・支那王朝などを介さずに、正式な形で)接触である。強力な軍事力を信長・秀吉・家康が保有していたことから、その支配下に置かれなかったことは、重要なことである。

つまり、当時大名レベルで、欧州に軍艦を派遣できる軍事力(慶長遣欧使節)を日本国が保有していた事で日本国が安全保障されていた。

絵画

濃絵の特徴を良く示す『檜図屏風』狩野永徳
日本に到来した南蛮人たち

狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。

  • 障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた[9]
  • 濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
  • 水墨画
  • 風俗画

主な絵師と代表作

漆器

陶器

皮革武具

・印伝 上州印伝:軽くて丈夫でしなやかな特徴を持っている大陸産鹿革は、 秀吉の唐入り後流行し、日本刀の柄、鎧兜などに利用されてトンボ柄が有名。

活字印刷

茶道

踊り

語り物

城郭

松本城

戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い山城から平山城へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や商人への経済支配を重視する平城へ移行した。織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。

倭城文禄・慶長の役朝鮮半島に築かれた城

その他

茶室

書院・庭園

関連項目

脚注

  1. 伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表”. 伏見経済新聞 (2016年11月19日). 2017年12月16日閲覧。
  2. 永原 1987, p. 36.
  3. 永原 1987, p. 48.
  4. 『いっきに学び直す日本史』古代中世近世282頁
  5. 永原 1987, p. 95.
  6. 『日本史図録』141頁
  7. 永原 1987, p. 81.
  8. 永原 1987, p. 68.
  9. 永原 1987, p. 83.

参考文献

  • 永原慶二; 青木和夫; 佐々木潤之介 『百姓・町人と大名』 読売新聞社〈日本の歴史 ジュニア版 第3巻〉、1987年5月。
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