大祚栄

大 祚栄(だい そえい)は、渤海の初代王。から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。

高王 大祚栄
渤海
初代王
王朝 渤海
在位期間 698年 - 719年4月2日
都城 旧国
姓・諱 大祚栄
諡号 高王
生年 不詳
没年 開元7年3月8日719年4月2日
乞乞仲象

概要

大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海、本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。

ツングース系民族[1]靺鞨であると日本学界では広く受け入れられており[2]、「高句麗に居住していた靺鞨人[3]」、「かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人[4]」、「高句麗に帰化していた靺鞨人[5]」、「高句麗に同化していた靺鞨人[5]」、「高句麗に付属した粟末靺鞨族[6]」、「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[7]」といった見解が好まれる。

渤海に関する二大基本史料は『旧唐書』と『新唐書』であるが、『旧唐書』には「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」とあり、その解釈について韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、大祚栄が高句麗人だったのか、或いは靺鞨人だったのかは議論が絶えないが、大祚栄は純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもなく、史料に「高麗別種」とあるのはこのためであり、大祚栄は粟末靺鞨出身で、かつて高句麗に亡命していたものとみられると述べており[8]、従って『韓国民族文化大百科事典』の解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗に亡命していた粟末靺鞨人」という解釈になる[8]。この『旧唐書』に登場する「高麗別種」の語に留意して、盧泰敦韓国語: 노태돈ソウル大学)は大祚栄を「高句麗化した粟末靺鞨人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人」という解釈になる[9]。一方、宋基豪(韓国語: 송기호ソウル大学)は「高麗別種」を「靺鞨系高句麗人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は靺鞨系高句麗人」という解釈になる[9]。渤海に関する二大基本史料のもう一つの『新唐書』には「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。(渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗(高句麗)に付属していた。姓は大氏である。)と記しており[10][11]、高句麗に服属していた粟末靺鞨の出自とある[12][13]

897年に唐に対して渤海の大封裔韓国語: 대봉예)が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して新羅の崔致遠が執筆した新羅王(孝恭王)から唐皇帝へ宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』(韓国語: 사불허북국거상표)には「大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人である」と記録されている[14]。『謝不許北国居上表』は渤海が存在していた同時代の史料であること、新羅王から唐皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料料的価値が極めて高い第一等史料とされる[15]

臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流 〈渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[16]。〉『謝不許北国居上表』

大祚栄の父である大舎利乞乞仲象が保有していた舎利[注釈 1][注釈 2]という官職は『五代会要』巻三十渤海上に「有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也」とあるため官名であることがわかり、『遼史』巻一一六国語解に「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。」とあることから舎利とは権力の誇示ができる頭巾を欲する豪民が、牛駝と馬を代償として払うことにより得られた官名であることがわかり[18]、『遼史』と『資治通鑑』によると契丹[注釈 3][注釈 4][20][18]、『冊府元亀』によると靺鞨[注釈 5]にはその舎利という官職が存在していたことは確認されているが、高句麗ではまだ舎利という官職の存在が確認されていない[21][22][23][24]。このことから、父の乞乞仲象が舎利という靺鞨にはあって、高句麗ではまだその存在が確認されていない称号をもっている点を考え合わせると、大祚栄は高句麗に帰化ないし同化していた靺鞨人とみるのがもっとも妥当という意見がある[25][26]

大祚栄の父の乞乞仲象はおよそ高句麗人とは考えられない靺鞨人の名前であることから、これを大祚栄=靺鞨人説の根拠にする意見がある[27][28][29]

ソウル大学校教授である宋基豪(韓国語: 송기호英語: Song Ki-ho)は、いくつかの情況から大祚栄は靺鞨人であるが、高句麗に服属していたことから一定の部分高句麗化され、乞乞仲象を経てさらに加速されて靺鞨系高句麗人となったと主張した[30][31]西江大学校名誉教授の李鍾旭(韓国語: 이종욱)は、渤海には高句麗人が多数暮らし、渤海は高句麗の伝統を受け継ぎ、さらに粟末靺鞨人である大祚栄は高句麗の将軍として勤務していたことがあるので新しい王国を建国する情報と力があった、として大祚栄は高句麗の将軍として勤務していた粟末靺鞨人としている[32]ソウル大学校教授である盧泰敦韓国語: 노태돈)は、大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人であるとして、明確に靺鞨の血統を受け継いだ人物と主張している[33]

生涯

万歳通天元年(696年)に営州地方(現在の遼寧省朝陽市)で父の乞乞仲象と共に自立を画策し、聖暦元年(698年)には自立の動きに反対する武周軍を破って震国を建国した。

武周は震国を牽制するために、大祚栄に官職を与える懐柔策や、軍事的な圧力を加えることで緊張関係が継続していたが、神龍元年(705年)には復活した唐の招安に応じ、唐臣としての地位を確認、唐も結局先天2年(713年)に「渤海郡王」の称号を与え、同時に忽汗州都督府都督を兼任することで正式に冊封体制に組み込まれるに至った。

外交関係としては、唐との修好関係以外に突厥契丹新羅日本との外交関係も構築し、海を隔てた日本を除く4ヶ国との緩衝国家としての地位を評価する説も存在している。

開元7年(719年)に薨去、その地位は次男の大武芸が継承した。

論争

新唐書』渤海伝では、乞乞仲象と大祚栄は父子関係となっているが、『旧唐書』には乞乞仲象の名は出てこないこと、また乞乞仲象は靺鞨名でありながら大祚栄は漢名であることなどを根拠に、池内宏は乞乞仲象は営州にいたときの本名、大祚栄は渤海の基を開いた後に用いた漢名であるとして、乞乞仲象と大祚栄は異名同人と主張し(『満鮮史研究』)、鳥山喜一は乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないそれぞれ別個の存在と主張し(『渤海史上の諸問題』)、新妻利久は乞乞仲象と大祚栄は父子関係と主張している(『渤海国史及び日本との国交史の研究』)[34]

登場作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. 有高麗別種大舎利乞乞仲象大姓、舎利官、乞乞仲象名也。(『五代会要』巻三十渤海上)
  2. 萬歳通天中、契丹盡忠殺営州都督趙文翽反、有舎利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奥婁河、樹壁自固[17]。(『新唐書』渤海伝)
  3. 契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利燼、勿吉雜流[19]。(『遼史』巻一一六国語解)
  4. 契丹捨利萴剌與惕隠、皆為趙徳鈞所擒。舎利・惕隠、皆契丹管軍頭目之称。(『資治通鑑』長興三(九三二)年三月条)
  5. 越喜靺鞨遣其部落烏舎利来賀正。(『冊府元亀』巻九七五外臣部褒異門)

出典

    • 和田萃「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された(京大日本史辞典編纂会編『日本史事典』)」
    • 黄文雄は「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』)」「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である(黄文雄『韓国は日本人がつくった』)」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、黄文雄は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である(黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』)」と高句麗と渤海を満州史としている。
    • 広辞苑「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
  1. “韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に”. SAPIO. (2013年3月). オリジナルの2015年11月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151117091758/http://www.news-postseven.com/archives/20130307_171373.html
  2. 石井正敏『特集 渤海国』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、24頁。
  3. 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年、551頁。
  4. 日本大百科全書『大祚栄』 - コトバンク
  5. 浜田耕策『渤海国興亡史』吉川弘文館、2000年、16頁。
  6. 浜田耕策『渤海国興亡史』吉川弘文館、2000年、17頁。
  7. ネイバー知識検索 발해. 韓国民族文化大百科事典. https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1820230&cid=46620&categoryId=46620
  8. 東北アジア歴史財団『渤海の歴史と文化』明石書店、2009年、396頁。
  9. 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社〈東洋文庫283〉、1976年1月、425頁。ISBN 978-4582802832。
  10. ネイバー知識検索 발해. 韓国コンテンツ振興院. https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1809623&cid=49243&categoryId=49243
  11. 걸걸중상(乞乞仲象). 韓国民族文化大百科事典. http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0002044
  12. 石井 2001, p. 172
  13. 石井 2001, p. 172
  14. 石井 2001, p. 171
  15. 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社東洋文庫283〉、1976年1月、426頁。ISBN 978-4582802832。
  16. 鳥山 1968, p. 31-32
  17. 森安 1982, p. 73
  18. 佐藤 2003, p. 28
  19. 孫昊(中国社会科学院歴史所助理研究員) (2014-4). 説“舎利”——兼論突厥、契丹、靺鞨的政治文化互動. 中国辺疆史地研究. https://archive.is/a8Nzb
  20. 韓世明・都興智 (2015-6). 渤海王族姓氏新考. 中国辺疆史地研究. http://jef.redisall.com:800/e8e027ae4a7e/6b2dd04efc81.pdf
  21. 송기호 (1995). 渤海政治史硏究. 一潮閣. p. 43. ISBN 9788933701775
  22. 森安 1982, p. 73
  23. 朱国忱・魏国忠『渤海史』東方書店、1996年、18頁。
  24. 鳥山喜一『渤海史上の諸問題』風間書房、1968年、31頁。
  25. 池内宏『満鮮史研究 中世第一冊』吉川弘文館、1933年、10頁。
  26. 林相先. 渤海 建國 參與集團의 硏究. 国史編纂委員会. p. 127. http://db.history.go.kr/download.do?levelId=kn_042_0050&fileName=kn_042_0050.pdf
  27. 송기호 (1991). 大祚榮의 出自와 발해의 건국과정. 아시아문화7. 한림대학교아시아문화연구소
  28. 이종욱 (2005). 고구려의 역사: 왜곡되고 과장된 고대사의 진실을 복원한다. 김영사
  29. 노태돈 (1985). 渤海國의住民構成과渤海人의族源. 韓國古代의國家와社會. 一潮閣
  30. 井上秀雄『東アジア民族史 2-正史東夷伝』平凡社東洋文庫283〉、1976年1月、426頁。ISBN 978-4582802832。

参考文献


先代:
渤海の初代王
698年 - 719年
次代:
武王
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