和三盆

和三盆(わさんぼん)は、正確には「和三盆糖」といい、主に香川県徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種である。和菓子等によく使用されることから、その産地として京都府などのイメージを持たれることも多いが、生産される和三盆糖のほぼすべてが香川県や徳島県で作られたものである。産地や製法によってその見た目や風味が大きく異なり、その差は和三盆糖に含まれる糖蜜の量による。細やかな粒子と口溶けの良さや、後に引かないすっきりとした甘さが特徴的である。三盆の名は、「盆の上で砂糖を三度『研ぐ』」という日本で工夫された独自の精糖工程から来たもので、国産高級砂糖のひとつである。また、その語感から「三温糖」と混同されることも多いが、これは全くの別物である。

和三盆で作られた干菓子の一例

歴史

日本では江戸時代に砂糖の存在が既に知られていたが、サトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、作られる砂糖も黒砂糖が一般的であった。

日本の砂糖作りは、徳川吉宗享保の改革において全国に糖業を奨励したことにより、全国に広まった。

讃岐和三盆

高松藩では、五代藩主松平頼恭公の命により、医師池田玄丈が砂糖作りの研究を始めた。その後弟子の向山周慶(さきやましゅうけい)が後を継ぎ、砂糖キビの栽培及び製糖法の研究を進めていた。

あるとき、向山周慶は、お遍路の途中で病気にかかり、行き倒れになっている人を治療して助けた。この人は薩摩藩奄美大島出身の関良介(せきのりょうすけ)と言う人で、砂糖作りをしたことがある人だった。

そこで、向山周慶は砂糖作りを教えて欲しいと頼んだところ、関良介は命の恩人の頼みを聞き入れ、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。

そしてまず黒糖を作ることに成功し、その後、研究を重ね酒絞りの方法を応用した「押舟切櫂法」を発明して分蜜が簡単に出来るようになった。こうして寛政2年(1790年)讃岐の地で初めて白砂糖作りに成功した。この白砂糖が讃岐和三盆の始まりになる。そして文化元年(1802年)、その製糖方法を門外不出のものとしてこの地で製糖の許可を求める文書(奉願口上書)を高松藩へ提出した。その文書に名を連ねた5軒の庄屋のうち、現存するのは三谷製糖のみとなっている。

阿波和三盆

徳島藩では、板野郡引野村の山伏、玉泉(のちの丸山徳弥、1754年ごろ - 1827年)が、この地に立ち寄った九州の遍路から甘蔗(サトウキビ)の話を聞き、1776年(安永5年)日向国延岡に渡る。旅の修験者として栽培・貯蔵法をさぐり、甘蔗を竹杖に隠して持ち帰った。甘蔗は順調に増殖し、玉泉は製糖法探究のため数年後に再度延岡に渡った。帰国後は独力で、甘蔗の栽培法や製糖法の研究に取り組み、1798年(寛政10年)ごろには三盆糖の製造に成功した。徳島藩の奨励もあって甘蔗栽培は急速に広がり、阿波を代表する一大産業に発展した。阿波砂糖の最盛期は天保 - 文久年間の約30年間で、最盛期の甘蔗作付け面積 2,500ha、甘蔗生産量 75,000t、白下糖生産量 9,487t、白砂糖 3,450t と推定されている。

讃岐和三盆は、その全てが献上品として高松藩に納められていたため、藩の特産品であるにもかかわらず、地元の人にはその存在すら知られていないという状態が長く続いていた。[1]

一方、阿波和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。

製法

数件ある製糖所の一部では、今もなお近代的な精糖ではなく、伝統的な製法で和三盆糖を製造している。

和三盆糖の原料となるサトウキビは、地元産の在来品種「竹糖(ちくとう・たけとう)」という品種が用いられる。地元では細黍(ほそきび)と呼ばれる温帯での生育に適した竹糖は、イネ科「シネンセ種(S.sinense)」に属し、熱帯地方で一般的に栽培されるサトウキビのオフィシナルム種(S.officinarum)とは異なる栽培種である。晩秋に収穫した茎を搾って汁を出した後、石灰を使用するなどして中和を行い、ある程度まで精製濾過したのち結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖(しろしたとう)といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。

そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を「分蜜」という。この一連の工程を何度か繰り返し、最後に1週間ほどかけて乾燥させ完成となる。昔はこの「研ぎ」を盆の上で3度ほど行っていたことから「和三盆」と名付けられたといわれている。

讃岐和三盆と阿波和三盆では、その工程数や製法などの違いから、それぞれ和三盆糖に含まれる糖蜜の抜け具合が異なっており、それは見た目の白さや、口にした際の糖蜜の風味などに違いが表れている。

5回以上「研ぎ」と「分蜜」を行うことで、より白くなった讃岐和三盆は、「讃岐三白(さぬきさんぱく)」と呼ばれる香川の特産品の一つとなっている。

なお和三盆には、原材料や製法に明確な規定が無い為、現在ではグラニュー糖や竹糖ではないサトウキビを原材料として製造されたものも存在する。

お菓子としての和三盆

こうして出来あがった和三盆糖は、粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、甘さがくどくなく後味がよいため、和菓子の高級材料として使用される。また、口溶けのよさと風味のよい甘さから、和三盆そのものを固めただけの菓子が存在し、干菓子の代表格となるほどである。代表的なものとしては、菓子木型を使用した打ちもの、球状に押し固めた和三盆を和紙に包んで羽根つきの羽根に似せたもの、懐紙に包んで懐に入れて持ち歩けるものなどがある。

しばしば和三盆の干菓子のことを落雁と呼ぶ人がいるがこれは誤りで、落雁は米粉などの澱粉質が主な材料であるのに対し、和三盆は基本的には着色料を除き和三盆糖100%のものを指す。しかし近年ではつなぎの役割として澱粉を使用するなど、混ぜ物をしたものも多く、これらもすべて和三盆として売られている。

糖蜜

和三盆糖精製の過程で発生する糖蜜(廃糖蜜とも呼ばれる)は、サトウキビ由来の糖分やミネラル分が多く残されることから、料理や製菓に使用されることも多い。海外ではモラセスと呼ばれており、ラム酒の原材料としても使用される。日本国内でもこの和三盆糖精製時に発生する糖蜜を使用したラム酒づくりが行われている。

また、この廃糖蜜にグラニュー糖などの精製糖と水とを適宜所望の割合で混合し、加熱・濃縮して白下糖と同等の含蜜等の状態を作り出す合成白下糖の製造法が特許としても公開されており、これによると理論上数十倍の和三盆を廉価に製造することが可能になる。

和三盆と加工糖

和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖の小売価格としては最も高価な部類に属する。

このため現在は、和三盆の代わりとして、白下糖に成分の似た粗糖などを使って類似の砂糖を工業的に製造し業務用に販売する、和菓子用の加工糖もある。

代表的産地

【讃岐和三盆】香川県東かがわ市引田

  • 三谷製糖羽根さぬき本舗[2] - 同社の社名の一部にもなっている羽根つきの羽根を模した「羽根さぬき」や、和三盆糖に抹茶を纏わせた「茶毬(ちゃまり)」という商品が有名である。
  • ばいこう堂[3] - ばいこう堂は大阪に本社を置く企業で、2014年に新設された同社の引田工場では年間およそ500トンの和三盆糖が製造されている。[4]和三盆に発音が似た「和三宝(わさんぼう)」という名称が引田で見られるが、これは、ばいこう堂による商標名である。

【阿波和三盆】徳島県板野郡上板町板野町、阿波市

  • 岡田製糖所[5] - 徳島県内の土産物店にも100gの小袋で売られている。地元の人間が土産として使うものとしてはピンクと白の半球を合わせ和紙で包んだものの詰め合わせなどが有名である。
  • 服部製糖所 - G20大阪summitで使用された最上質和三盆「大無類和三盆」が有名である。
  • 友江製糖所
  • 影山製糖所

脚注

  1. 三谷製糖のこだわり”. wasanbon.com. 2021年3月3日閲覧。
  2. 和三盆とは”. 三谷製糖. 2020年4月2日閲覧。
  3. 和三盆の歴史”. さぬき和三宝 ばいこう堂. 2020年4月2日閲覧。
  4. 日本経済新聞社・日経BP社. 讃岐銘菓 引き立てる和三盆|トラベル|NIKKEI STYLE (日本語). NIKKEI STYLE. 2021年3月3日閲覧。
  5. 阿波和三盆糖 名前の由来”. 岡田製糖所. 2020年4月2日閲覧。

参考文献

  • 伊藤汎監修『砂糖の文化誌 ―日本人と砂糖』(八坂書房2008年 ) ISBN 9784896949223
  • 暮しの設計No127『城下町のお菓子 郷土菓子に残る日本の味と形』(中央公論社1979年) 雑誌63223-27

外部リンク

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