吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本高家肝煎)。赤穂事件浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通鳥居正次清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。

 
凡例
吉良義央
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永18年9月2日1641年10月5日
死没 元禄15年12月15日1703年1月31日
改名 三郎(幼名)→義央
別名 左近(通称)、卜一(号)
墓所 万昌院功運寺片岡山華蔵寺
官位 従四位下侍従上野介従四位上
左近衛権少将
幕府 江戸幕府奥高家、高家肝煎
氏族 吉良氏清和源氏足利氏流)
父母 父:吉良義冬、母:酒井忠勝の姪(忠吉の娘)
兄弟 吉良義央東条義叔東条義孝
東条冬貞東条冬重、孝証
正室:上杉綱勝の妹・富子(梅嶺院)
上杉綱憲三郎、鶴姫(島津綱貴室)
振姫、阿久利姫(津軽政兕室)
菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)
養子:義周(上杉綱憲の次男)

生涯

所領

領地は三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石。

出自

本姓源氏清和源氏足利家支流。鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した支族(長男でありながら母が側室であるため足利宗家を継承できなかった為に宗家継承権を持ったまま分家するという特例措置)であり、後に足利家が将軍家へと栄達した室町時代には足利将軍家が途絶えた際には次に吉良氏から将軍を輩出すると言われた程の名門であったが、実際には足利将軍家に重用される事もなく名門意識を持ちながら三河の地に埋もれ、戦国時代には更に没落し貧窮していた。徳川家康が源氏を名乗る際には、吉良氏の家系図を借用したとも言われる[1]。徳川幕府により旗本3000石(後に4000石)に取り立てられた家格の出自である。家紋は丸に二つ引・五三桐。足利家が上杉家と縁続き(足利尊氏の母が上杉家出身)であるため代々足利一族と上杉家は婚姻外交を繰り返しており、その関係で吉良家も上杉家とは古来からの縁者である。

寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本吉良義冬(4,200石)と大老酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真北条氏康の娘・早川殿の玄孫、武田信玄の傍系の子孫である。継母は母の妹。

弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。

承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介であることについては、親王任国を参照)。

万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。

『上杉年譜』では「万治元年3月5日、柳営において老中酒井忠清松平信綱阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。

富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。

名門の家柄

万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。

寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。父の義冬がまとめた吉良流礼法の後継という立場から、部屋住みの身でありながらも使者職を任じられており、通算24回もの上洛は高家の中でも群を抜いている。こうした扱いは、徳川家が新しく武家の礼法を欲していた為ともいわれている。

寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙。

寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語とも言われ、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。

以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、財政支援をさせたほか、3人の娘達を上杉家の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は1680年11月20日に綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。

寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。

延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴に嫁いでいた鶴姫が離縁される。天和3年(1683年)3月には大沢基恒畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)に領地のあった三河国幡豆郡黄金堤を築いたという伝承があるが、実際に義央が築堤したという信憑性は乏しいとされている。

また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。

元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。

松の廊下での刃傷

元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉高野保春霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎饗応差添役だったが、朝廷への年賀の使者として京都におり江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。

3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている(多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。

義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、隣家の阿波富田藩蜂須賀飛騨守から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる[2][注釈 1]。これは堀部安兵衛らが大石に送った8月19日付書簡に書かれてあったことで、後世になって流されたものとされる。

また、屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、義央も隠居し、養嗣子の義周に家督を譲って以降は、妻の富子らと共に上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったことが『桑名藩所伝覚書』・『江赤見聞記』・『忠誠後鑑録』などの複数の史料によって判明している。

この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。

12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。

これと前後して茶人・山田宗徧は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に本所の吉良邸で茶会があるとの情報が宗徧を通じて、宗徧の弟子・脇屋新兵衛(その正体は四十七士の一人大高忠雄)につかまれていた。

義央は養嗣子の義周に家督を譲って以降、上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったため、常に上杉の兵達に守られている状況にあった。そのため、義央が上杉屋敷を離れ、本所の吉良邸で茶会を行うこの日を元赤穂藩筆頭家老・大石良雄は討ち入り日に決定した。

赤穂事件で斬死

華蔵寺にある墓

12月15日未明に、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当時の吉良邸には、諸説あるが『桑名藩所伝覚書』に「上杉弾正様より吉良佐平様へ御附人之儀、侍分之者四十人程、雑兵共百八十人程参居申候よし」とあるように、上杉家(米沢藩)から220人ほどが派遣されていて、義央の警固にあたっていたとされる。

討ち入った赤穂浪士はまず、家臣達が寝起きする長屋の戸口をかすがいで打ちつけ、吉良家の家臣達が出られないように工作を行った。 そのため、戸口を破って応戦したり、逃亡した者数名を除いて、長屋から出なかった者達(用人1人、中間頭1人、徒士の者5人、足軽7人、中間86人)と赤穂浪士らに抵抗しなかった裏門番1人の合計101人には、死傷者は出なかったとされる[4]

赤穂浪士らの襲撃に気づいた吉良家の者達は、この時の当主・義周をはじめとした吉良家臣40名ほどが防戦にあたり[5]、その間に、義央は寝所から二人の供を連れて、台所横の炭小屋に隠れた。赤穂浪士らは吉良家の家臣達と戦いながら 義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。 しかしながら、義央の寝所にたどり着いた赤穂浪士のうち、茅野和助が夜具に手を入れ、まだ夜具が温かい事を確認すると、赤穂浪士らは義央が寝所から離れてそう時間が経っていないと判断し、再び捜索にあたった。

そして、吉田兼亮間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとした。すると、炭小屋にあった皿鉢や炭などが投げつけられ、赤穂浪士らに向かって2人の吉良家臣が斬りかかってきた。そのため、その二人を切り伏せ、炭小屋内を調べると、奥で動くものがあり、間光興が槍で突いた。間光興が突いたのは 寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差を抜いて抵抗したが、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。

首の返還と遺体の供養

そして、義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へと送り返し、家老の左右田孫兵衛斎藤宮内がこれを受け取った。この時の二人の連署が書かれている、吉良の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が義央の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、義央は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。

この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。

後史

赤穂浪士の処分

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[6]。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[7]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[6]

吉良義周の処分

赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。 そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える[8]

幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと[9]。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。

その後の吉良庄

その後の吉良庄は、西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主が統治する。吉良義央の弟・東条義叔は、兄の死後、吉良の祭祀[注釈 2]などは継承したが、知行500石は武蔵国児玉郡と賀美郡内にあり、吉良庄と直接の関係がなくなっている[10]

吉良家の高家再興

赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田[注釈 3]から吉良に戻す許可を幕府に求め、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。これにより三河吉良家は途絶えたまま、武蔵吉良家が高家を次ぐことになった。一方、義央の弟にあたる義叔は旗本として東条姓を名乗っており、その息子の東条義武の末期養子であった義孚が、享保17年(1732年)に、義央の家系が絶えていることを理由に東条家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許された。この再興吉良家には高家の格式は与えられなかった。


また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[11]

義央の子孫

吉良義央の血脈は上杉家大炊御門家鷹司家畠山家などに伝わり、21世紀の令和の御代まで存続している。吉良氏も二家(旗本と高家)続いているが、どちらも義央の子孫ではない(弟・義叔の子孫と別家・義俊の子孫)。

  • 吉良義央の男系子孫である鷹司(松平)信謹(義央の仍孫)は、元治2年(1865年)から吉井1万石の藩主となり、吉井陣屋にて吉良の旧領の一部を統治した。
    義央-綱憲-吉憲-重定-勝煕-斉定-斉憲-信謹

評価

他の大名家・藩での評判

忠臣蔵の悪役として有名な義央の評価は全国的には芳しくない。もっとも忠臣蔵が上演される以前から、義央が行っていた長矩に対するいじめの話は広く世間に知られていたようであり、また義央が浅野長矩以外の御馳走人にもいじめを行っていたという話も残っている。

  • 浅野が刃傷に及ぶ前、伊予大洲藩主・加藤泰恒出羽新庄藩主・戸沢正庸が日光法会中に受けた義央のいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよと諭したという話が『冷光君御伝記』[13]や『義人録』[14]などに記されている。
  • また、尾張藩士の朝日重章の日記である『鸚鵡籠中記』に、
「吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る」[15]
「吉良は欲が深い者ゆえ、前々から皆贈り物をして頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快ということで、何事につけても知らせをせず、事々において内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思った。今日の殿中における御老中の前での吉良の言い様は、今度の内匠頭のやることは万事、思うようにならなかったのだから、もとより言うべきではなかった。公家衆も不快に思ったという。内匠頭はいよいよこれを遺憾に思って座を立ち、その次の廊下で刀を抜いて、声をかけて吉良の烏帽子ごと頭を斬った」と記述があり、松の廊下の事件が起こった直後の尾張などでも、こうした評判・風説がすでに広まっていたようである[16]
  • 元禄11年(1698年)、勅使御馳走人となった亀井茲親は義央からいじめを受け、耐えかねた茲親は家老の多胡真蔭に洩らしたという。真蔭は主君を諫める一方で、密かに金遣役を呼んで納戸金一箱を取り出させ、茶菓子のなかに入れて手土産として吉良邸へ持参し、主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願して帰邸。翌日より茲親への態度が急に優しくなったので事なきを得た、という話が津和野名産の茶菓子源氏巻誕生の逸話として残っている。ただし、この逸話の初出は忠臣蔵上演の後に記された大田南畝(蜀山人)の『半日閑話』(1768~1822年)[17]とされている。

養子縁組や娘の嫁ぎ先

上杉家(米沢藩)家臣たちからの評価も芳しくなかった。それは上杉家では義央の長男・三之助(後の上杉綱憲)が上杉家の養子となって以降、吉良家の買掛金や普請を負担し、支払うのことが多々あったためである。

  • まず、延宝4年(1676年)に、吉良家が町方に未払いでためていた6000両を上杉家が上方からの借金で年1000両[注釈 4]を支払い、6年間で返済[18]
  • 続いて、天和元年(1681年)の6月20日付の須田右近書状に「上野介様の御身上はかねて御不如意に候いて、御迷惑なされ候、なかんずくこの頃は呉服所の伊兵衛と申す者が町奉行へ書付を指し上せ候……」とあるように[19]、吉良家がためていた買掛金を一向に支払わないため、呉服所の伊兵衛が町奉行へ訴え出るということが起こり、訴え出た呉服所の伊兵衛を始めとして、さがみ屋又兵衛・薪屋庄兵衛などの町方・商人10人ほどにためていた吉良家の買掛金2780両を上杉家が肩代わりしたとされる[20]
  • そして、元禄11年(1698年)には、勅額火事により鍜治橋にあった吉良邸が焼失したため、呉服橋に新邸を建てることとなり、その建設にかかった費用の2万5500両を上杉家が負担している[21]
  • 更に、これらに加えて、米沢藩の分限帳に、「一、五千石 御前様(義央の妻の富子) 一、千石 鍜治橋様(吉良義央)」とあるように、上杉家から吉良家に毎年6000石の援助を行っていた。確認できるのは寛文2年(1662年)から延宝4年(1676年)までなので、1石1両として、6000両ずつ13年間で累計7.8万両の計算[22]

なお、当時の上杉家の江戸家老の色部安長の知行(石高)は1666石。色部安長の前任で江戸家老を務めた千坂高房は1565石。上杉家で色部氏と共に最上位に遇され、米沢藩が削封されてから福島城代から代わって鮎貝城代(御役屋将)を命ぜられ、上杉家の軍大将(軍奉行)も兼ねた本庄政長は1666石だったので、当時の上杉家で最上位に位置していた、これら上士(上級藩士)の三家を合わせた石高よりも更に多い俸禄を上杉家は毎年、吉良家に仕送りしていたということになる。

上記のように、上杉家は吉良義央の長男を養子とすることで改易を免れたという立場上、そして義央の息子である上杉綱憲が藩主となったことなどから、所領が半減されるなどの苦しい藩財政にありながらも吉良家に対して何かと支援し、金銭を工面しなければならなかった。そのため、吉良家に対して、多額の肩代わり・資金援助を行わなければならなかった当時の上杉家の江戸勘定方、須田右近は国元の米沢藩にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き残している[23]。また、それらに加え、経済的に逼迫していた上杉家では、天和3年(1683年)4月に、将軍家へ「倹約」を正式に申し出、藩財政が逼迫していたため、幕府や諸大名家との交際を倹約した[24]。更に、藩では平日の音信贈答を禁止し、婚礼であっても一汁三菜におさえることなどが命じられたが、同年の11月には、上杉家の江戸における買掛金は1万2千両に達した[24]

  • 島津光久の継室で公家の平松時庸の養女であった陽和院が松の廊下の事件について、兄の平松時量に送った「陽和院書状」という書状が現存している[25]。陽和院は光久の継室であったため、血の繋がりはないものの、光久の孫である島津綱貴の祖母といえる立場にあり、その孫の綱貴に嫁いでいた吉良義央の娘の鶴姫とはいわば、大姑の関係にあった人物でもあった。松の廊下の事件が起こった当時、江戸にいた陽和院は京都にいた兄の平松時量に宛てて、以下のような書状を送っている。
「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことく再々御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれからの事とそんし候」
「十四日に江戸城で珍しい事が起きました。これは吉良殿の人が悪いためです。(時量殿も)仰せによって何度か江戸へ下向されていますが、よい時に来ていました。何事も自分の身からでたことと思われます」

すでに義央の娘、鶴姫と島津綱貴とは1680年に離縁しているためか、陽和院は冷淡な反応を示している。また、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴から離縁された鶴姫はその後、実家の吉良家には戻らず、養家であり、弟である上杉綱憲のいる上杉家に戻り、上杉家白金屋敷で暮らした[26]

朝廷

松の廊下での刀傷事件が伝わった当時の朝廷の反応・様子を伝えるものとしては、当時の関白であり、朝廷内で親幕府派であった近衛基熙の日記である『基煕公記』、当時の参議であった東園基雅の日記の『東園基長卿記』、そして、東園基雅の父であり、有職四天王と称された一人でもあった東園基量の日記の『基量卿記』などがある。また、赤穂浪士の討ち入り時の様子を伝えるものとしては野宮定基の『定基卿記』がある。

  • このうち、『基煕公記』では吉良が刃傷されたことについて、近衛が3月19日に「珍事」とおもしろげに記しており、3月20日に近衛が参内した時に、松の廊下の事件について書かれた書状を東山天皇がご覧になられた際の様子については「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と天皇が喜ばれていたこと、そして、近衛が高野前中納言と密かに吉良が斬りつけられた件について話した際に、高野が心中、歓悦している(大変喜んでいる)と述べたことなどが書かれている[27]。なお、近衛が3月20日に参内した時、天皇や近衛に伝わった情報は『基煕公記』の3月20日に「浅野内匠頭は田村右京亮に預けられ、吉良の生死は未だ知られずと、先ず注進があり」と書かれている。事件の報告として吉良の生死不明な状態である事が先に伝わっていたことから、長矩が本懐を遂げたかどうかではなく、吉良が刃傷に巻き込まれた事について喜ばれたと考えられる。
  • また、当時の参議であった東園基雅の『東園基長卿記』には、浅野長矩が切腹の上、一家滅亡することを伝え聞いた基長が「三月二十六日、晴れ、伝え聞くに、去る十四日……内匠頭乱心これより相極り、その夜切腹といい、これより一家滅亡といい、とても不憫である。所存が達せられず、かつ、家中以下は流浪とこれ至り、不憫なり」と書いている[28]
  • そして、その基長の父である東園基量の『基量卿記』も同様に、「三月二十日、晴れ、伝え聞くに、去る十四日に武江城(江戸城)に於いて浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷したが、然れども吉良は死門に赴かず、浅野内匠乱気による沙汰と有り、夜に入りて切腹といいつけられ、一家は滅亡という。存念が達せられず、とても不憫である。当日、これより御返答申され、白書院は流血で不浄の間となり、黒書院において御清めが有ったという」と書いている[28]
  • 東園基量と同じく、有職四天王と称された一人であった野宮定基は、赤穂浪士が討ち入りしてから3か月ほど後の元禄16年(1703年)3月22日に、自身の日記である『定基卿記』において、「この時の柳営(幕府)がその怯弱を戒め、その帯びた剣を奪い、これを追放すれば、則ち大石も亦た憤ることはなく、これを不問にし容したのは、卿の失と謂うべきなり」と書いており[29]、「幕府が松の廊下の事件の際に、吉良上野介の怯弱を罰し、武士としての地位を剥奪して追放していれば、大石もまた憤ることはなかった。吉良上野介を不問にして許したのは、将軍の失態というべきである」と義央を不問とした幕府の処置を批判している。

これらの当時の朝廷に仕えていた者達の史料では、親幕府派であった近衛基熙も含めて、当時の朝廷側の反応は吉良義央に対しては冷たかったことが読み取れる。 高家という立場の義央は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多く、そのため天皇もまた義央に含むところがあったという見方もあるが、義央は霊元天皇の御代の延宝4年(1676年)の年頭祝儀の上使の際には、後西上皇から直筆の「うつし植て 軒端の松の 千とせをも おなしこころの 友とち吉良む」という和歌を下賜されている[30]。 元禄14年(1701年)当時の幕朝関係から見れば、朝廷尊重を掲げていた綱吉の時代に入り、幕府嫌いといわれる霊元天皇に代わって親幕派であった近衛基熙らの補佐を受けて東山天皇が親政を行っていた時期でもあり、御料(皇室領)が1万石から3万石に増加し、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していたとされている。

幕府

  • 江戸幕府が編纂した『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、以下のように書かれている[31]
「世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ」

幕府は吉良義央が礼節典故を熟知し、精錬していることに関して、右に出るものはいないと高く評価している。 しかしながら、その立場などから賄賂を貪り、巨万の金額を得ていたこと。長矩が阿順せず、賄賂を渡さなかったことを憎んで、何事についてもいやがらせをしたことから恨みを買ったために、あのような顛末になった、と記している。

  • また、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗は、赤穂浪士の討ち入り時には20歳であり、赤穂事件と同時代の人間でもあったため、自著とされる『紀州政事鏡』において、浅野内匠頭と吉良義央について以下のように書いている[32]
「一、先年浅野内匠頭吉良上野介と殿中において、勅使登城の節の喧嘩は所と云い、時節と云い、短慮之致し方と諸人申事に候得共全く左道に不可在候諸大名の見る所にて、高家の小身者に法外の悪口を被り致大名たるもの堪忍は難しく成處誠に武門の道なり……早速、片落の御片付は誠に時の老中方、愚味短知の事なり、吉良は同罪の中に重ねて不調法不可勝計子細は指図致し候はゝ首尾よく相勤済可申處欲心非道の者故段々不法の挨拶にて切掛候得は吉良は重き科に極たり……
二、意趣有りて切掛るを意趣討と云ものなり、是を浅野計片落を被り仰付致候事は吉良へ御荷担同様の御政事なり」
「一、先年の浅野内匠頭と吉良上野介の殿中において、勅使登場の際の喧嘩は場所といい、時期といい、短慮の行いと諸人はいうが、全く正しいことではないとすべきものではなく、諸大名の見る所にて、高家の禄の少ない者に法外な悪口を言われて大名たるものは我慢することは難しく、これを斬ることは誠に武門の道である……すぐに片手落ちの処罰は、誠に時の老中方の愚かで短慮なことである。吉良は同罪の中に、更に配慮が足らないことは数えきれないほどあり、子細を指図し、首尾良くお互いに勤められるようにすべきところを、欲心・非道の者のため、斬られたことは吉良の重き罪に尽きる。……
二、意趣が有って切掛ることを意趣討ちというもので、これを浅野が片落ちを被り、浅野へ仰せつけることは吉良へ加担同様の政事である」

以上のように、吉宗は赤穂浪士の討ち入り以降の世情を見ていることや赤穂浪士を擁護したことで知られる儒学者の室鳩巣を重用・起用していたこともあってか、義央と当時の幕府の判断を非難している。

茶人

茶人としての義央は、「卜一」(ぼくいち)[注釈 5]という茶の号を名乗り卜一流を興した。また『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗徧などとも親交を持っており、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であるという。ただし千宗旦は義央が未だ五歳であった正保3年(1646年)に隠居しており、義央が初めて京を訪れる寛文2年(1662年)より前の万治元年(1658年)に亡くなっている。

  • 松の廊下の事件が起こるおよそ3年前、佐賀鍋島藩の支藩である鹿島藩の江戸留守居の公用日記『御在府日記』の元禄11年(1698年)9月2日の記述に「吉良上野介様より香炉御所望に付き、獅子香炉・町伯荒木酒一器副え、御手紙にて陸使にて遣わされ候、唐冠香炉御所望に候へども之無く、右の香炉有り合わせ候由にて遣わされ候」[33]、同じく、11月15日の記述に「吉良上野介様卓香炉一つ、花色染付大花生一つ、袖香炉二つ物恕付一つ、遣わされ候」などが見えるように、義央が所望したため、度々、家宝や茶道具をいくつも用立てていた鹿島藩のような藩もあった[34]
  • また、秋田藩の家老岡本元朝の『岡本元朝日記』にも松の廊下の事件から10日後に書かれた義央に関する記述として、
「吉良殿日頃かくれなきおうへい人の由。又手の悪き人にて、且物を方々よりこい取被成候事多候由。先年藤堂和泉殿へ始て御振舞に御越候時も、雪舟の三ふく対御かけ候へは則こひ取被成候由。け様之事方々にて候故、此方様へ御越之時も出入衆御内々にて目入候能(よき)御道具被出候事御無用と御申被成候由ニ候。」などがあり、
「吉良殿は日頃から横柄な態度で有名な人物だということです。また手の悪い人で、方々から物をせびりなさる事が多いということです。先年、藤堂和泉殿(伊勢津藩主)へはじめて御振舞に御越になった時も雪舟の三幅対の御掛け軸をかけたところ、せびって自分の物にしたということです。このような事を方々でなされるので、こちら様へ御越の時も御出入の旗本衆が内々に、よい御道具は出されない方がよいと御申しなされたという事です」[35]

吉良家の所領近隣の評価

上野国・人見堰

吉良家の領地には三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村3200石の他、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村1000石があった。この吉良領人見村に隣接する磯部村領主仙石久邦によって水不足解消策として用水工事が計画される。ところが隣村の領主であった吉良若狭守義冬との交渉は難航し、明暦4年(1658年)から始まった交渉で吉良との最初の手形が交わされるのが寛文6年(1666年)になり、長い協議を経て着手した工事は吉良氏側の妨害を受けてさらに遅れる。義冬の死後(1668年)、義央が家督を継いだ後も状況は変わらず、困った仙石久邦は磯部村を天領にしてもらうことで吉良氏からの妨害を退ける方策をとる。久邦は幕府に領地替えを願い出て、寛文9年(1669年)に久邦の所領は別に移され磯部村は天領となった。

その後、幕府主導で用水工事が進められることになり、ようやく寛文13年(1673年)に人見堰が完成し村内200町歩(200ヘクタール)の水田を灌漑することができた。村民は久邦の徳を慕い、永宝元年(1704年)12月に久邦の生祠を建て稲葉大権現として祭りその徳をたたえた。建立された石祠及び頌徳碑は、現在では安中市の指定史跡となっている[36][37]

三河・鎧池の新田開発の争議

三河では寛文10年(1670年)に鎧池の新田開発をめぐり、吉良領岡山村と隣領瀬戸村との間で争論が起こっている。事態収拾のため三河代官鳥山牛之助精明が見分を行い、開発した田畑は切り捨てること、鎧池はそれまで通り岡山村が支配する一方、池の水は田地用水として瀬戸・岡山・木田の三村が取水できること、池の魚は岡山村だけが捕ってよいという裁定を下した。こうして吉良氏の元での鎧池の新田開発は頓挫したが、吉良氏改易後の正徳元年(1711年)になって、池の南側約3分の1が開発され尾崎新田村が成立した[38]。この地域は現在の黄金堤の付近である。

西尾の大二重堤

義央が築いた堤防により矢作古川で洪水が発生し、西尾藩の領民は苦しめられた。西尾藩主であった土井利意はこれを防ぐために小焼野から鎌谷に至る大二重堤を築いたと伝わる[39]

領地の係争

貞享3年(1686年)にも西尾藩の利意との間で領地の境界線をめぐって争っている。

地元での評価と実態

いつの頃からか三河地方の一部では、領地幡豆郡に黄金堤を築いたとされる治水事業(1686年)や、富好新田の新田開拓(1688年)、塩田開発などの治績を義央が行ったという伝承が形成されており、これらを根拠として地元の名君として評価する独特な史観に基づいた教育が行われている[40]。しかし名君であるとするこれらの根拠は、近年になって作られたと考えられるものが多い。

  • 慶長14年(1609年)から元禄15年(1702年)まで、吉良家が義弥・義冬・義央の三代にわたり事績を書き継いできた『吉良家日記』には、黄金堤築造・富好新田の干拓・塩田開発などを当時の吉良家や義央が行ったという記述やそれに類する記録は一切、見られない[41]。また、こうした事業を当時の吉良家や義央が行ったということを記した江戸期の史料も発見されていない。
  • 吉良家は上杉家(米沢藩)に莫大な借金の肩代わりをさせているような財政状況で、当時は町方に対する支払いなども滞っている様な有様であった。そうした中、吉良家が独自に多額の資金を必要とする治水事業を立て続けに主導したと言うのは、経済的な面から考えても無理がある。義央が行ったとされている治績は、当時の吉良義央や吉良家が行なったものではなく、実際には後世の領主や幕府などが行ったものである可能性が高いと見られている[41]
  • そもそも吉良荘があった矢崎川周辺は新田開発によって発展した地域で町人による新田開発も多く、吉良領周辺にも「新田」と名が付く地名も多く見られる[42]。新田開発自体も、江戸期を通して幕府から推奨されており、全国各地でその取り組みが行われていた。これらの事を考えると、仮に義央が新田開発を行ったとしても、それだけで特出した治績であったとは言いがたい。
  • 吉良町には「赤馬」という郷土玩具が存在し、これは義央が黄金堤を築いた際に当地を訪れ現地を赤馬に乗って作業を視察したという言い伝えに由来するとされている。しかし実際に義央が三河の吉良領を訪れたのは生涯で一度だけで、『吉良家日記』に延宝5年(1677年)11月に京都へ臨時の上使を務めた帰りに、領地の三河国幡豆郡吉良庄を訪れたことが確認できるのみである[41]。黄金堤の築堤されたとされる伝承(1686年)とは時期が重ならない。実は、この郷土玩具の「赤馬」は義央の死後130年ほど後の天保年間になってから作られはじめたものであり、赤馬自体は全国各地の郷土玩具に散見する素朴なモチーフの一つとして知られている。また吉良の「赤馬」は継続して製作され続けていたわけではなく、天保年間には製作が途絶えた時期もある。後年、五代目の時代に、おりからの郷土玩具ブームに乗る形で「吉良の赤馬」として全国的に知名度が広まった。その後、六代目になって愛好家からの要望で、初めて商品に「白馬」と「殿様」が加わったという経緯がある[43]。義央との関連付けはこの時期に形作られたと見られる。
  • 「黄金堤」という名称についても、築堤によって水害を終息させ農業生産の安定に寄与した義央の遺徳を偲んで称されるようになったという伝承があるが、実際に義央が築堤したとする根拠は乏しい。 1991年に行われた発掘調査では吉良義央の築堤という伝承を支持する年代観は得られず、「その領国政策については伝承のみ」とされた。また、黄金堤の名称とその存在の初現については、明治17年の瀬戸村整埋図に「番外三十二番黄金堤 長十七間四尺 幅平均九間」とあるのが確認できる最初のものであり[44]、それ以前の現存史料である寛永5年(1623年)「岡山村検地水帳」・宝永2年(1705年)「田畑水帳」などには、黄金堤の名称とそうした堤の存在が確認できないことが、愛知県埋蔵文化財センターの調査によってわかっている[45]
  • また義央は、須美川の水を領内の水田に引き込む寺島用水を開いたともされる[46]。しかしながら岡山村の南に位置する寺島は吉良の領内ではなく、寺島用水自体の開削も江戸期に行われたものではなく実際には明治17年である。
  • 塩田開発に関しては、義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。そもそも吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は1件もなく、吉良家が塩田に関わった説の初出は戦後とされ、NHK大河ドラマ『峠の群像』で世間に広まったと言われている[47]

義央の所領があった上野国においては、若狭守の正室が伊香保温泉に湯治した帰途に白石にあった陣屋に滞在して義央を産んだという伝承があり、この時産湯に使われた井戸を「汚れ井戸」と称して後世に伝わっている。もっとも義央は江戸鍛冶橋の江戸屋敷で誕生したとされ、吉良の陣屋にあった飲料に適さない井戸を「汚れ井戸」とし、わざわざ義央の産湯の話を付け加えたのは地元領民の揶揄であったと考えられる。

備考

義央以外の高家衆

刃傷事件があった元禄14年(1701年)、義央は高家肝煎の地位にあったが、当時の高家は彼を含めて9人いた(元禄14年当時)。

このうち、吉良義央・畠山義寧・大友義孝の3人が高家肝煎職であったが(★印)、中でも義央は高家肝煎職の最古参であり、かつ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。

江戸っ子と田舎大名

義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国愛知県)などに領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地にアイデンティティを持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地にアイデンティティを持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。

当時の賄賂

当時、勅使饗応役に就任していたのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。また、任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが、浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。

松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として大判金1枚[注釈 6]・巻絹1台・鰹節一連を贈っている[48]。同時期に、院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達宗春は、大判100枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている[48]。また、饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている[48]。また、金子に添えられる付届は、国土産という国の産物であった[49]

また、当時の指南・指導に対する指南料については、事例は少し異なるが、以下のような例がある。

  • 明暦2年(1656年)正月に後西院が即位した際に、薩摩藩は島津忠弘を使者として上京させて、朝廷に祝儀を贈っている。その際に忠弘は、指導を受けた幕府の上使である松平頼重と吉良義冬、及び京都所司代牧野親成にそれぞれ「太刀・馬代」として銀一枚を贈っている。この時、牧野は受領したが、松平・吉良は返納したと記されている。このように指南料を返納したのは、父の吉良義冬の頃には、指導・助言に対する贈答行為は定着していなかったためであろうとされている[50][51]

当時の吉良家の経済状況

義央が当主であった当時の吉良家の家計は、非常に逼迫した状況にあった。その様子は「閏十一月二十一日付千坂兵部・本庄出羽書状」に、「去年迄は従弾正殿の合力有之に付、とやかくと暮し候、今年よりは合力無之筈に付、内々ひしと手つまり禿候と被申候」とあり、その他の「六月二十日付須田右近書状」などの計3点の書状で、上杉家・吉良家・吉良家の親類などが困窮し、破綻しかけている吉良家の家計に対する金策を苦悩しながら相談している様子がいくつも書かれていることから明らかとなっている[52]。また、こうした経済的状況にあった吉良家は、出費を削減するために、大老の酒井忠清に一年に二度も京都への御使を命じられることのないよう申し入れを試みようとしていた[53]。更に、義央は家計逼迫を理由に、今後、諸家への音信・贈答などを全て省略することを畠山義里を使者に立て老中の大久保忠朝に申し入れている[54][24]。そして、ここでいう「諸家」は高家の交際範囲は大名・旗本等の武家に留まらず、京都上使を勤めるのに当たり、天皇家や親王家及び公家衆などの堂上方、西本願寺なども含まれていたとされる[54]

義央の木像

元禄2年(1689年)に吉良義央は家臣に命じて、華厳寺の西側に霊屋を建て、三基の厨子を並べ、中央に吉良義安の木像を安置し、左に義定の木像、右に義央の自像を安置したという。義央が父祖幾代の像を差し置いて、自己の像を安置したのは僭越の行為であったとされ、義央自身、「生前自身に像を安置するのは憚あれど、五十に達するに遠慮は及ばず」として、敢えて像を安置したという[55]

吉良と大石の縁戚関係

吉良義央と大石良雄の2人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明である。

進藤長治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大石良信
 
 
 
長滋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良勝
 
 
斎藤本盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良欽
 
 
 
長定俊盛生善院
 
 
 
上杉定勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
良昭長房斎藤宣盛宣盛富子
 
 
吉良義央
 
 
 
 
 
 
良雄

偏諱を与えた人物/名前の読みについて

の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県西尾市の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている。

伝記

  • 鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞社、1998年) ISBN 4806203025
  • 中津攸子『吉良上野介の覚悟』(文芸社、2001年) ISBN 4835513541
  • 岳真也『吉良上野介を弁護する』(文春新書、2002年) ISBN 4166602853

吉良義央を題材とした作品

吉良義央を演じた俳優に関しては赤穂事件を題材とした作品を参照。

  • 菊池寛『吉良上野介の立場』(青空文庫
  • 岳真也『吉良の言い分 真説・元禄忠臣蔵』、ケイエスエス、1998年。上 ISBN 4877092676、下 ISBN 4877092684。
    • 小学館文庫に改版、2000年。上 ISBN 4094048413、下 ISBN 4094048421。
  • 岳真也『梅嶺院富子の場合 吉良の言い分・外伝』ケイエスエス、1999年。ISBN 4877093621。
  • 麻倉一矢『吉良上野介 討たれた男の真実』PHP文庫、1998年。 ISBN 4569572111。
  • 清水義範『上野介の忠臣蔵』文藝春秋、1999年。ISBN 4163183302
  • 池宮彰一郎『その日の吉良上野介』角川文庫、2004年。 ISBN 4043687052。
  • 鈴木由紀子『義にあらず 吉良上野介の妻』PHP研究所、1999年。ISBN 9784569606019。
    • 幻冬舎時代小説文庫に改版、2010年。ISBN 9784344415621。
  • ホルヘ・ボルヘス 著/篠田一士 訳『砂の本』集英社文庫、1995年。ISBN 4087602400。
  • J.L.ボルヘス 著/中村健二 訳 短編集『汚辱の世界史』「礼儀知らずな式部官 吉良上野介」岩波文庫、2012年。ISBN 9784003279267。
  • 森村誠一『忠臣蔵』朝日新聞社、1986年1月[注釈 7] - タイトルを『忠臣蔵』にしてフィクションの扱いであるが、「事件が起きた理由・背景」の作者独自の分析が含まれる。  

参考文献

  • 赤穂市史』1、赤穂市、赤穂市、赤穂、1981年。
  • 百楽天、「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」月刊『TOWN-NET』、1998-99年。
  • 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』三省堂、1999年(平成11年)。ISBN 978-4385359137。
  • 代田清嗣「徳川幕府刑法における贈収賄罪 (pdf) 『名城』第68巻第2号、名城大学法学会、2018年、 96-44頁。

脚注

注釈

  1. 吉良上野介の本所への屋敷替えについて「隣家の蜂須賀飛騨守内匠頭の家来が吉良邸へ斬り込んでくるのを日夜警戒していたが、出費もかかり困り果てて老中に屋敷替えを願い出た」「この風評は『江赤見聞記』巻四[3]にも似たような話が記されている」という。
  2. 義叔の孫に当たる義孚の代に「東条」から「吉良」へ復姓する。
  3. 高家の「今川」における「品川」と同じ扱い。
  4. 1両=10万円計算で、現在の価格でおよそ6億円。
  5. 「卜一」とは上野介の「上」の字を二分したもの。
  6. 元禄大判1枚は約100万円相当。
  7. 森村誠一著『忠臣蔵』は改版を重ねて角川文庫、講談社文庫、朝日文庫、徳間文庫にそれぞれ含まれる。

出典

  1. 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衛前久 - 天下一統に翻弄された生涯』<中公新書> 1994年pp.167-176
  2. 宮澤誠一『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」』 1999年。93-95p
  3. 江赤見聞記.
  4. 『赤穂市史』第1巻
  5. 「米沢塩井家覚書」
  6. 山本(2013) 188-192
  7. 山本(2012a) 第七章二節「大石内蔵助の最後」
  8. 『上杉家御年譜 第6巻 綱憲公』
  9. 山本博文 『赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)』 吉川弘文館
  10. 寛政重修諸家譜」巻第九十二。
  11. 『旧高旧領取調帳』など
  12. 村田昇. 修身教科書 (pdf)”. 2018年1月25日閲覧。
  13. 吉良義央が受けた日光法会の際のいじめのエピソードその1。『冷光君御伝記』
  14. 吉良義央が受けた日光法会の際のいじめのエピソードその2。『義人録』
  15. 刃傷沙汰に及ぶ経緯の記録。朝日重章の日記(尾張藩士)『鸚鵡籠中記』より。
  16. 朝日文左衛門 (原著)、加賀樹芝朗『朝日文左衛門「鸚鵡篭中記」』雄山閣。
  17. 大田南畝 (蜀山人)『半日閑話』、1768-1822。
  18. 藩政史研究会 (編)『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』。
  19. 「6月8日付須田右近書状」『上杉文書目録』、1969年。
  20. 渡辺誠『直江兼続と上杉鷹山』。
  21. 小野栄「米沢藩」。
  22. 米沢市史編さん委員会 (編)『米沢市史』。
  23. 上越市史専門委員会中世史部会 (編), ed. 上杉家御書集成
  24. 谷口 2019, p. 67.
  25. 「陽和院書状」という書状が現存。『陽和院書状』福武書店〈広島大学所蔵猪熊文書〉。
  26. 谷口眞子「吉良家・上杉家からみた赤穂事件」『特別展図録 元禄赤穂事件』、赤穂市立歴史博物館、2019年、 67頁。
  27. 「基煕公記」。
  28. 赤穂義士史料 . 中央義士会 (編)[他]. 雄山閣. (1931 (昭和6年))
  29. 野宮定基「定基卿記」。
  30. 谷口 2019, p. 66.
  31. 徳川実紀. 成島司直 等 (編). 経済雑誌社
  32. 「紀州政事鏡」。
  33. 鹿島藩江戸留守居役「御在府日記」『鹿島藩日記』三好不二雄 (編)。元禄11年(1698年)9月2日の記述。
  34. 三好.
  35. 『岡本元朝日記』秋田県公文書館 (編)。
  36. 『安中市史』2、安中市市史刊行委員会。
  37. 忠臣蔵にまつわる史跡?! 〜仙石因幡守の石祠・頌徳碑〜 あんなか・みんなのサイト - 特定非営利活動法人 群馬活性化企画センター
  38. 鎧ケ淵を中心とする岡山瀬戸古絵図」、西尾市の文化財 -西尾市。
  39. 『西尾市史』1、西尾市、1973年、P562、558。
  40. 黄金堤(こがねづつみ) - 愛知エースネット/愛知県総合教育センター
  41. 西尾市史編さん委員会 (編)『吉良家日記』。
  42. 町人の進めた干拓 水土の礎 - (一社)農業農村整備情報総合センター
  43. 吉良の赤馬 あいちの地場産業 - 岡崎信用金庫
  44. 「瀬戸村整埋図」1885年。“番外三十二番黄金堤 長十七間四尺 幅平均九間 (黄金堤の名称とその存在の初現)”
  45. 「黄金堤発掘調査報告」『愛知県埋蔵文化財センター年報』1991年3月。
  46. 渡辺誠『<元禄赤穂事件と江戸時代>悪評まみれの名君 吉良上野介義央』。
  47. 塩と歴史くらしお古今東西 塩と暮らしを結ぶ運動推進協議会。
  48. 中江克己『忠臣蔵の収支決算』。
  49. 三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』叢文閣、1934年、64頁。
  50. 小林輝久彦「江戸前期のある旗本家の財政状況についての考察 ―幕府高家吉良義央の場合―」『大倉山論集』第62輯、公益財団法人大倉精神文化研究所、2016年、 202-203頁。
  51. 『鹿児島県史料 旧記雑録追録1』鹿児島県、1971年、282頁。
  52. 小林 2016, p. 165-180.
  53. 小林 2016, p. 165-169.
  54. 小林 2016, p. 188.
  55. 赤穂義挙録. 上. 義士叢書刊行会 (編)

関連項目

外部リンク

先代:
吉良義冬
高家吉良家当主
第3代:1668年 - 1701年
次代:
吉良義周
  1. 『朝日新聞』2013年12月15日29面(東京西部朝刊)。
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