人生の意義

人生の意義(じんせいのいぎ、英語: meaning of life)または人生の意味とは、人生目的意味はあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのかという問いである。生きる意味生きがいレゾンデートルフランス語: raison d'être)ともいう。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
フランスの画家ポール・ゴーギャンが、1897年~1898年にタヒチ島で描いた絵画[注 1]

人生の意義については医療科学精神医学心理学等といった側面から、さまざまな答えと議論がなされている[注 2]

概要

この問いは、経済的に豊かな国であるほど、切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う[16]

人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる[17]。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である[18]

精神医学における諸見解

エンパワーメント(能力開化)

斎藤学(1941年~)によれば、自己肯定は人生の大きな力になる[19]。特に、治療者を介さず自分で自己肯定できるようになることが望ましい[19]

この自己肯定はエンパワーメント(能力開化)であり、もう一人の自分が語る自己卑下を、聞いている自分が否定していくという作業である[19]。自己卑下に対して、「そんなことない。あなた(と呼ばれる「私」)は精一杯やったじゃない。ここまでできたのはあなたの力だよ」と否定する作業であり、斎藤学は以下のように説明している[19]

看護師薬剤師教員資格運転免許など、皆さんはいろいろな資格を持っていると思いますが、これはみんなあなたの力が勝ち取ったものです。…こういうものひとつひとつを自分の力として感じることです[19]。 もし何ひとつやらずに家に十数年、あるいは数十年こもり続けたという人がいれば、私はその人の我慢強さに打たれます。何かの病気を持っているならともかく(その場合には疾患との激務をこなしていたわけです)、引きこもり続ける力というのは並大抵のものではありません。両親経済力のおかげというのであれば、その親たちからのケアを引き出すことにあなたは有能だったのです[20]

精神衛生・福利(メンタルヘルス・ウェルビーイング)

2014年に国民保健サービス(NHS)は、「精神衛生福利」(メンタルヘルスアンドウェルビーイング “mental health and wellbeing”)をめざして、5つの方法の推奨を行い始めた。それは、1.地域や家族とつながりを持つこと、2.身体的運動を行うこと、3.一生涯学ぶこと、4.他の者に与えること、5.自分の周りの世界を注目すること(マインドフルネス)、である[21]

価値実現

ヴィクトール・フランクル(1905年~1997年)は以下のように述べた。

「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」

ヴィクトール・フランクル 『死と愛』 みすず書房、1961年。(原題『医師による魂の癒し』)

これをもう少し噛み砕いて説明すると、フランクルが言いたいのは、人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている人も多いようだが、このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)ではなくて、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」という人生観を意識的に選択すると、ひとりひとりの具体的な人生から、自然と、絶え間なく意味がもたらされるようになる、といったことを述べているのである。

欲望中心の価値観では、例えば病気や人間関係等のトラブルはただの邪魔なものとしか眼に映らないが、「意味と使命中心の生き方」「なすべきことをなす生き方」では、それらのトラブルは何らかの意味がある、と受け止められるようになる。「これらの出来事を通して、人生が私に何かを問いかけてきている」「私に何を学ばせようとしているのだろう?」と受け止めることができるようになる、といったことをヴィクトール・フランクルは言っている。

そして「人生が自分に求めていること」を見つけるための手がかりとして、"三つの価値"を提示する。「創造価値」「体験価値」「態度価値」である。

創造価値
自分の仕事を通して実現される価値。これは大それたものである必要はなく、例えば、調理、コピーとり、清掃などでも。これによって助かる人、快適になる人がいる何かを提供している、ということ。
体験価値
人や自然と触れ合う体験によって何かを受け取ることができ、また何かが実現できる価値のこと。
態度価値
自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか。それによって実現されてゆく価値のこと。人生には、生まれつき決まってしまっている一種の「宿命」のようなものもあり、「運命」とも言えるものもあり、また生きている最中にはさまざまなことが起きる。このような「与えられたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生の真価がわかる、とフランクルは述べる。そして、この態度価値だけは、(前述の二つの価値とは異なり)人がいかなる苦境に追い込まれ、さまざまな能力や可能性が奪われても、実現の可能性がたたれることはない、と述べる。つまり、この価値をもってすれば、人は息を引き取るその瞬間まで、人生から意味が無くなることは無く、「人生の意味」は絶えず送り届けられ、発見され、実現されるのを待っている、ということになるのである[22]

使命感

神谷美恵子(1914年~1979年)は、日本語で「生きがい」と言うと、対象を指す場合と、感情を指す場合がある。生きがいを感じさせる対象を「生きがい」と呼び、それを感じる人の感覚・感情を「生きがい感」と呼び分けることもできる、と著書『生きがいについて』で述べている。人は長い一生の間にはふと立ち止まって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたりすることがあり、このようなときは、大まかにいって次のような問いが発せられるわけだろう、と神谷は述べる。

  1. 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
  2. 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか[23]

人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われ、それは上記の問いの第一と第二が一致した場合であろう、と述べる。だが、これらは必ずしも一致しない。生活のための職業とは別に、ほんとうにやりたい仕事を持っている人も多い。それらの両立が困難になると、うっかりすると神経症になる人もあり、中には反応性うつ病や自殺にいたる人さえいる[24]

「生きがい感」を一番感じている人種というのは、使命感に生きている人(自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力で歩いている人)、ではないか、と述べる[25]。このような使命感の持ち主は、立派な肩書や地位を持って目立っているというわけではなく、むしろ人目につかないところに多くひそんでいて、例えば小、中学校の先生、特殊教育に従事する人、僻地の看護士など、いたるところにいる、と述べる。

社会的にどんなに「立派」とされることをやっている人でも、自己に対してあわせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなり、自分の心の深いところからの声に耳をかすのも苦しくなる。すると、生活を忙しくして、この自分の心の深いところからの声が聞こえぬふりをするようになる。この、「自己に対するごまかし」こそが、生きがい感を何よりも損うものである、と指摘する[26]

使命感に生きる人にとっては、たとえ使命半ばで倒れたとしても、事の本質は少しもちがわない。自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえが、正しいと信じるところに置かれているならば、使命の途上のどこで死んでも本望であろう、と述べる。これに対して、使命にもとっていた人(使命に背いていた人)は、安らかに死ぬことすらできない[27]

生存目標の喪失と喪失した人の心の世界

神谷は、難病にかかったり、恋人を失ったり、子供を失ったり、職を失うなどして生存目標を失うと、人は「前途が真っ暗な世界に閉ざされた」「世の中が真っ暗になった」「深い谷底につき落とされた」などといった感覚を味わうとしており[28]カール・ヤスパースやクーレンカンプ(Kulenkampff, C)が「足場」とか「立場」などと表現しているのは、決して抽象概念などではなく、人間の根源的な感覚に根ざした表現である[29][30][31]。 それまで生存目標としていたものが失われると、人はもはや何のために生きてゆくのか、何が大切なのか、判断の基準すら分からなくなる。つまり価値観が崩壊し、これは概念レベルにとどまらず、もっと根本的な生体験(感情や欲求や知覚)にも影響を及ぼす[32][33]

新しい生存目標

新しい生存目標の発見は、自分自身の本質的なものの線に沿ったものではなくてはならない、と神谷は言う[34]。自分自身の本質に沿ったもので、これ以外に自分の生きる道はないのだ、とわかったら思い切ってそれを選びとるほかはない、この決断と選択と賭けの前にしり込みしたときには、いわゆる実存的欲求不満の種をまくことになり、後日に神経症や「にせの生き方」や自殺をひきおこす、と述べる[35]

新しい生存目標は、かつてのものと比較して類似のものに変形したり、すっかり置き換えられたりする。人間への愛が生きがいという状態から、神へのこそが生きがい、と変わる場合もある。神秘家などにこの例は多く、失恋を契機として修道院での人生を選ぶ人などもこの例にあたる[36]。生きがいの置き換えのことを、リボーは「情熱の置き換え」と呼んだ。例えばゴーギャンにおいては、株の仲買人で生きていたが、35歳の時その職を捨て、絵画に走り、現世的な幸福はすべて捨てさってしまった、という[37]

結局、自分の内にさまざまの可能性を持っている人は、ひとつの生きがいを失っても、ほかの生存目標をみいだし、強く生きてゆけるのではないか、と言い、内在的傾向の複雑なひとほど生きがいの置き換え現象が起きやすいのだろう、とする[38]。また、ある事例を挙げて、全てのできごとを「天の摂理」として受け入れる素朴な宗教心をもっている人だと、新しい境遇に置かれればまたそこで新たな生きがいを見出すものだ、とも述べる[39]

生きがいと宗教

“宗教というものは現世において満たされない欲求を埋め合わすもので、代償と自己防衛の役割を果たしているものに過ぎない”、などと考えてしまう人が多くいるが、もし仮にそのようなものだとしたら、現実の苦悩の原因がとりのぞかれれば宗教は必要でなくなってしまうということになるが、実際はそうではない、と神谷は言う[40]

ゴードン・オールポートの著書に明快に書かれているように、宗教とは、人格に統一的な原理を与えるものであり、宗教とは、自我の成長の各段階において存在全体を意味づける前進的意図を用意するものである。宗教が積極的な生きがいを人に与えうるとしたら、まさにこのような意味での宗教でなくてはならない、と神谷は述べる。このような宗教は、単なる思想や理想の意味をこえて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、もののみかたのみならず、見えかたまで変え、世界に対する意味づけまで変える、とする[41]。また、多くの思想家や心理学者の言うように、宗教の果たしうるもっとも本質的な役割は、人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感を与えることであろう、とも述べる[42]

心理学における諸見解

ポジティブ心理学の研究者達は、人生の満足[43] 、活動への全面的関与[44]、自分の個人的な強みを用いて十分に貢献すること[45]、自分より大きいものに関わる意味、などをもたらす実証可能な要因について研究している[46]

ある作業に熱中することはフローの一面である

フローの経験についての大規模データを用いた研究が一貫して示していることによれば、人間の経験の意味ややりがいは、困難な課題を達成したときに感じられるものであり、課題の単なる選択よりも、その課題への取り組み方や遂行の仕方に由来する経験が大きく影響する。例えば、フローの経験は、強制収容所で自由がほとんど無い囚人にも、得られることがある。それは億万長者が得るよりも、わずかだが頻度が高い。古典的な例としては、[44] 工場のラインでうんざりうする仕事をする2人の労働者を挙げることができる。1人は退屈で嫌な仕事と考え、他の1人は仕事をどのくらい速くできるかというゲームと捉えてフローの経験を得た。

最近の研究によれば、人生の意味の有無は、身体的健康の予後をよく予見するとのことである。つまり、人生に大きな意味を見出している人ほど、アルツハイマー病になるリスクが低下し、[47] 冠動脈疾患を持つ人に起きる心臓発作のリスクが低下し、[48]脳卒中のリスクが低下し、[49] アメリカと日本の調査において長寿の人が増えたのである[50]

政治学・経済学における諸見解

社会学者・政治経済学マックス・ウェーバーは『職業としての学問』(1919年)の中で、近現代人の自己同一性(アイデンティティ)について述べている[51]科学に基づく近現代社会は、前提として進歩進化し続けているため、必然的に近現代人は「進歩の過程の途中」で死ぬしかない[51]。そのため人々にとって「自己の生」は、常に不満足で無意味なものに映っているとウェーバーは言う[51]

またウェーバーは、自己の生に関する問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないと述べた[52]

哲学における諸見解

遺伝子の乗り物・自然の手先

チャールズ・ダーウィンたちによれば、自然および「自然の手先」である生物(人間)に、「」や「」のような倫理価値は全く無い[53]。自然も生物も、ただ科学的に「あるがゆえにある」だけであり、この認識はフリードリヒ・ニーチェたちが広めた思想にも共通している[53]外科医・科学者のロバート・ウィンストンによれば

自然淘汰プロセスに倫理的価値があるわけではない。自然淘汰は、その本質から言って、倫理的に良いも悪いもなく、ランダムな突然変異にもとづくプロセスである。[53]

人間は機械的な自然淘汰の産物であり、そのためニーチェ流の思想は人間を「自然の手先」と呼んだ[53]。これは、進化生物学リチャード・ドーキンスが、人間を含め生物を「遺伝子の乗り物」と解説したことに類似している[53]

哲学者の仲島陽一が言うには、ニーチェは医療科学自然科学を引き合いに出すことで自らの主張に「根拠付け」しようとしており、例えばニーチェは次のようにも記している[54]

医師であること、情け容赦なくやること、メスを振るうこと、 ―― これぞ私達のなすべきことである。[55]

ニーチェによると、本質とは「力への意志」である[56]。ニーチェが言うには、人生にとって重要なのは、「神」や「彼岸」や「真の世界」ではなく、「健康」や「栄養住居、精神の食餌、病気の治療清潔天気の問題」である[57]

「神」という概念は、生の反対概念として発明された。 … 「彼岸」や「真の世界」という概念がでっち上げられたのは、存在している<<唯一の>>世界を無価値にするためである。――われわれの地上の現実のための目標理性や使命が存在する余地をなくすためである。

」や「」や「精神」という概念が、それになんと「不滅」という概念までがでっち上げられたのは、からだ軽蔑するためである。からだを病気に――「神聖」に――するためである。人生で真剣に考えられるべきすべてのこと、つまり栄養住居、精神の食餌、病気の治療清潔天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである!

健康のかわりに「魂の平安」が持ち出されるが、――それは、懺悔痙攣救済ヒステリーを往復する周期痴呆症なのだ![57]

あなたがね、大きな使命を果たすよう定められているのなら、なおさらあなた自身、傷つくでしょう。

答えはこうだ。こういう小さなこと――つまり栄養のことや、土地のことや、気候のことや、保養のことや、それから自分のアラを探すことですが――こういうことこそ、これまで重要だと思われてきたどんなことよりも、はるかに重要なんですよ。まさにこの点において、<<学習転換>>をはじめる必要があるんです。

これまで人類が真剣に検討してきたことは、現実ですらないんですよ。たんなる想像にすぎない。もっと厳密に言うとですね、病気の人間たちの、もっとも深い意味で有害な人間たちの、劣悪な本能から生まれた<<>>なんですよ。――「神」、「魂」、「」、「」、「彼岸」、「真理」、「永遠の命」などの概念は、みんな嘘なんです。[58]

教育学者・教育哲学者の菱刈晃夫によると、ニーチェ、マルキ・ド・サドショーペンハウアー等やその流れを継ぐ思想家たちの共通点は、自然法則や自然科学を重視して、信仰伝統を批判する点である[53]

ニヒリズム

ニヒリズムは、人生には意味はない、と示唆・主張する。簡潔に言うと、ニヒリズムというのは「最も高い価値があるものを無価値にしてしまう」過程と言える[59]。だからニヒリズムでは「“人生の意味”などというものはない」と考えることになる。ニーチェは、ニヒリズムの特徴というのは、世界・人間の意味・存在・目的・可知的真理・本質的価値などを空っぽにしてしまうことだ、と述べた。またニーチェは、要はニヒリズムというのは目的が欠如しているのだ、と述べた(後述)。そしてニヒリズムを乗り越えるべき、とした。マルティン・ハイデッガーは、ニヒリズムというのは、「存在」が忘れ去られてしまい、存在を価値へと変容させてしまう動きであり、価値へと交換するために存在を減らしてしまうことである、とした[60]

フランスの哲学者アルベール・カミュは、「人間の条件」の馬鹿げているところは、世界に外在的(客観的)な価値や意味を求めてしまうことである、とした。世界には客観的には意味はなく、人間に対して無関心である。カミュは自分の作品において、ニヒリスト的な価値観を持つムルソーという人物を登場させたが、またその一方で、意味の無い世界であっても「英雄的なニヒリスト」になろうと闘う人々も登場させた。それはたとえ意味が無いと分かっていても尊厳とともに生きる人々であり、いわば「世俗の聖人」たちで、友愛の団結で結ばれて人生を生き、世界の無関心に対して戦いを挑んでそれを見事乗り越える人々を描いたのである[61]

功利主義

功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており[62]、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「善は何であれ最大多数の最大幸福である」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された[63]

実存主義

実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる後のみに生じている。

セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされていて、世界は我々に無関心ではあるが、我々人間は自分自身の価値を作るべきなのだ、とした。我々は、人間という有限な生しか持たない存在とも、条件をつけたりせずに関わりを持つことによって、意味に満ちた人生を生きることができるのであり、それによって絶望と不安から解放されるのである。たとえ他の人々と関わることは自分が傷ついてしまう結果をうみがちだとしても、それでも他の人々と関わり合うことで、そうすることによってこそ、意味のある人生が送れる、とした[64]

アルトゥール・ショーペンハウアーによると、「人生の意味とは何か?」という問いにおいて、我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動だと定められている。ショーペンハウワーによれば、美的な瞑想、他者からの共感を求めること、そして禁欲主義というのは、救い・救済痛みからの逃避なのである[65][66]

ニーチェに言わせると、生きたいと思わせるような目的がある時にだけ、人生というのは生きるに値する。ニーチェは、「全ては意味が無い」などとしてしまうニヒリズムなどというのは要は目的が欠如しているのだ、と指摘した。ニーチェはまた禁欲主義というのも人生の否定だ、とした。ニーチェは、価値というのは、客観的な事実なのではなく、人間の理知が必要としているものなのであって、世界と自分を結ぶコミットメントなのだ、と述べた。つまり結局、人生をどう評価するか、ということは解釈の問題なのであって、世界自体が(客観的に)どうあるか、という問題ではないのである。そして人が想うことは、その人の特定の立場から来ているのだ、とした[67](ニーチェのこの考え方は「perspectivism 遠近法主義」と言う)。

論理実証主義

論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある[68][69]。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?[70]これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。

プラグマティズム

プラグマティズム19世紀後半のアメリカで形成された。

プラグマティズムの哲学者は、人生の実践的で有用な理解こそが、人生の非実用的で抽象的な真理探究より重要である、とする。 プラグマティズムの哲学者ウィリアム・ジェイムズによると、人は人生が順調に進んでいるときは「生きる意味があるのか?」などとは考えないのであって[71]、人は自分の人生で何か壁にぶつかった時に「何のために生きている?」などと疑問に思うという[71]。ジェイムズに言わせると、「人生は生きるに値するか?」などという問の真の意味は「最近私の人生はつらいことが多くてやってられない!」ということであって、要は愚痴なのだ、という[71]。ジェイムズに言わせれば、「人生は生きるに値するか?」の答えは、「人生は生きるに値するから値する」であって、「人生の意味とは何か?」などという本質を求める問いは止めて、人生の実際的な効能に着目したほうがいいという[71]。人がどのように思うかということは、その人の人生で起きることに影響しており、ポジティブに考えて行動するからポジティブな結果が生まれる。人生は生きるに値すると思って行動していれば、実際に生きるに値する人生になる、とする[71]

思想史学・宗教学における諸見解

反西洋・反近代・反合理化

バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートによれば、

暖かい人間のが蘇り、人生はもう一度深い意味を持ち、人々は信頼を思い出す

という類の主張をした事例として、都市バビロン)を戒めた一神教ユダヤ教キリスト教イスラム)がまず挙げられる[72]。このような主張は、ジハード戦士をはじめとするイスラム過激派や、毛沢東主義政権等の全体主義者も共通して行っている[72]。近代の資本主義社会(市民社会)は、西欧アメリカを中心に建設され広まったが、そうした民営的・民主的な近代社会に対抗した人々は「田舎に対する都市の勝利」を、概念上で「都市に対する田舎の勝利」へと反転させ、

等からの脱出を約束した[73]。ただし、近代西洋から広まった合理的産業都市に敵対したり嫉妬・憎悪を感じたりする人々というのは、都市の生活がどんなものかを想像することさえ難しい田舎の住民・第一次産業従事者などではない[74]。むしろ、都市生活からもたらされるイメージや商品を身近に感じたり消費したりしている都会人・知識人学者などだった[74]20世紀イスラム思想家・哲学者で最も影響力があった一人のサイイド・クトゥブ[75]によると、近代における人生や社会は「分割」されてしまっており、その原因は「経済競争(利己的な野心)」である[76]

解決策としてクトゥブは

イスラム教の生き方でのみ人間は他の人間への隷属から解放される。そして神の崇拝だけに専心し、神からのみ指導を受け、神の御前にだけひれ伏すようになる。

と述べた[77]。広範な政治活動を巻き起こしたイスラム哲学者・神学者としてクトゥヴ、サイード・ムハマド・タレカニアブララ・マウドゥディなどが居り、彼らは出身国や宗派が異なっていても、同じような世界観を共有していた[78]。イスラム、特にイスラム過激主義では、唯一神アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている[79]。前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「」ということになる[79]。クトゥブは

イスラム以外の社会、そこで神以外のものが崇拝されている社会は、どんな社会であれすべてジャーヒリーヤ〔野蛮〕だ。

と述べている[79]

宗教と全体主義は、「一体化」という点で共通していると言われる[80]。例えば近代社会の「政教分離」原則に反して、敬虔なムスリムにとっては政治・経済・科学・宗教は別のカテゴリに分離できない[81]大日本帝国で「近代の超克」に参加した哲学者西谷啓治はムスリムではないが、彼の理想も、政治と宗教が継ぎ目無く一つの「全体」を形成すること、言わば教会と国家が合体することだった[82]。(彼の批判によれば、ヨーロッパ精神文化が崩壊した原因は自然科学分業化だった[83]。)こうした統一的な国家宗教または精神的政治は、1930年代日本の京都から1970年代イランテヘランにいたるまで、広く全体主義や反西洋思想(オクシデンタリズム)に見られる[82]毛沢東の中国、ヒトラー第三帝国ナチスドイツスターリン体制下のソビエト連邦でも、宗教施設から大学の自然科学系学部まで、あらゆる機関が全体主義思想に従うよう強制的に再構築された[82]

歴史学社会科学と異なり、 宗教的・ロマンチックな世界観ではこの種の「一体性」は「純真」に等しく、そして「純真」の時代が「堕落」の前に存在する[84]。「純真」・「堕落」・「救済」といった宗教的・全体的概念は古くからあるが、これらは宗教家だけでなくロマンチスト(ロマン主義者)も多用してきた[85]。近代の産業社会を主導する啓蒙主義者や合理主義者たちの見解は楽観的で、人間の歴史を「より幸福でより合理的な世界へと直線的に進行するもの」と見なしている[85]。(「技術史観」では、「人間社会の歴史的発展を究極的に決定している要因は技術の進歩である」と考えられており、技術という普遍的発展に比べて文化・思想・社会等は常に技術より遅れている、とされている[86]。)一方で、宗教的またはロマンチック(ロマン的)な人々は、悲劇的な感覚に基づいて自らの人生を「奈落の底」に位置づけ、自分たちは救済を希望しながら天を見上げている、と考える傾向がある[85]。奈落や堕落とは、すなわち「断片化」 ―― 例えば「真実の自己」から離れること、社会からの疎外、「自然」または「神」からの疎遠 ―― とされる[87]

このような思想から見れば、労働と市場の関係もブルジョア的(市民的・資本家的)に分業されてしまっている[84]。よって非ブルジョア的な宗教家やロマンチストにとっては、「救済」は統一や調和への憧れを満たすものである[84]。彼らは非楽観的であるため、結果(目標達成)よりも過程(探求)を重視しており、よって「失われた一体性」を常に切望し続けている[84]

宗教的・ロマンチックな政治や価値観では、「失われた過去の調和」への郷愁が根強い[84]。表面的種類としては中世ヨーロッパ、初期キリスト教ロシア正教会全盛期、古代日本といった様々な「過去」が引き合いに出されるが、いずれにも「失われた一体性」という内容が共通している[84]。そのような「過去」は、「一体性」を回復する「偉業」の原点としても持ち出されている[84]

精神的な「発展」・「進化」

比較宗教学者の大田俊寛によると、マックス・ウェーバーが述べたように近現代社会の人間は、無限に続く物質的発展進化の中で生きている[51]。そのため近現代人は「自己の生」の、あるいは「魂」や霊的概念のよりどころを見失っている[51]。しかし、近代に復活した様々な宗教的・神話的・伝統的思想は、肉体や物質を超越した「魂」や「精神」を再度持ち出し、それらを統一させる方向へ向かった[88]。この種の思想、「霊性進化論」は、近代側(科学進化論)と伝統側(宗教霊性論)との間における断絶を、精神的「発展」または霊的「進化」によって解決しようとしている[89][注 3]

これら近代以降の諸宗教は、一見すると「正」の立場に位置しているようである ―― すなわち霊性進化論の目的は、「対立」(特に科学と宗教との対立)を克服したり、今までの様々な諸宗教の共通価値や普遍的英知を再発見したり、「神」的なユートピアを探求したり、精神的・魂的な反省と研鑽を重ねたりすることである[89]。しかしそれは、強烈な「負」の側面と表裏一体であり、結果として「純然たる誇大妄想の体系」に行き着いてしまうと大田は述べている[89]。その特徴として、

  1. 「霊的エリート主義の形成」[注 4]
  2. 被害妄想の昂進」[注 5]
  3. 偽史の膨張」[注 6]

という三点が挙げられる[96]

大田が言うには、そもそも近代化産業化・科学化が、宗教的・伝統的社会へ多大な破壊的影響を与えた[97]。まず地動説によって地球は、「宇宙の中心」としての地位を追われた[97]。さらにダーウィン進化論によって人間は、神的存在の創造した「特別な存在」という地位を失った[97]。つまり人間を含め生物は、神聖な存在によって創造されたわけではなく、突然変異自然淘汰の「メカニズム」によって出現したということが、合理的方法で証明されたのである[97]

近代社会の諸科学や諸学問から見れば、宗教的・伝統的な学知は、前近代的な「迷信」の寄せ集めでしかなくなった[97]。確かに、近代以降にも「人間の生」、社会の持続的運営、精神といった事柄に問題はつきまとってきた[98]。宗教は近代社会の中で再解釈・再編され、そして宗教は、「人間の生」の問題や、進化論との対立をはじめとするもろもろの問題を解決しようとした[98]。しかし比較宗教学から見れば、そのような宗教活動は「霊性進化論」であり、「妄想の体系以外のものを生みだしえない」と結論できる[98]

文学における諸見解

ゲーテの見解

ゲーテは大作『ファウスト』において人生の意味をテーマとして扱っている。そこでは、今ある空虚を満たそうと欲望をどれほど追い求めてもその空虚は埋まらない、それどころか、欲望の充足を追求すればするほど、かえってその空虚が際立ってくる、ということを示している。金が欲しい、地位や名誉が欲しい、異性が欲しいなどの欲望は、欲望を満たしたとたんに次の新たな欲望が生じ、どこまでいっても満たされない、という「永遠の欲求不満」の状態に置かれてしまう[99]

『ファウスト』第一部では、大学者のファウストは学問を究めつくしても人生はただむなしいだけと気づく。そこで悪魔メフィストファレスと交渉し、ファウストを満足させられたら死後の魂を差し出してもかまわない、と約束する。ファウストは悪魔の力で若さを得て、マルガレーテと恋をし身ごもらせるが、その結果母と兄を失うことになった彼女は生まれたばかりの赤ん坊を沼に沈めて殺してしまう。ファウストは「ああ、俺は生まれてこなければよかった」と嘆く。第二部では、懲りないファウストは皇帝の家臣となり、ふたたび悪魔を説き伏せ、黄泉の国からギリシャ神話の伝説の美女、完全な美の体現のヘレナの霊を呼びださせ、結果としてふたたび恋におち、子供をつくり平和な家庭を築き、今度こそ満足のゆく生活を手にしたかのように見える。だが愛する子オフィリオンは平和な家庭を否定し、戦いを求めて旅立ち死んでしまう[99]
では、その後ファウストが、「ここにこそ人生の意味がある」と思え、「時よ止まれ!お前は美しい!」と叫ぶことができるようになったのはどのような時かというと、自分の欲望を満足させようという思いは捨て去り、万人のための自由な国を建設しよう、と人々のための「理想の国」実現に向けて戦いはじめた時であった。つまり、『ファウスト』における「人生の意味」「本当の幸福とは何か」「本物の満足とはどのようなことか」というテーマの答えは、自分の欲望の満足へのこだわりは突き抜けて、それを手放し、自己(小我)を超越し、利他の状態に至ったときにはじめて手に入るものだ、ということである[99]

なお、ファウストの心の旅があらゆる学問への絶望から始まるように、人生の意味や真の幸福というのは、学問や思索によって得られるものではないのであり、「人生の意味は○○である」とか「真の幸福とは○○」であるということを書物や文章を読んで学んだところで、それで人生の意味や幸福が得られるわけではなく、実際に「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、と表現されているのである[99]

五木寛之の見解

五木寛之は著書『人生の目的』の「あとがきにかえて」でその見解を示している[100]

人生の目的は、『自分の人生の目的』をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの『生きる意味』を見出すことである。変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である』といってもいい。私はそう思う。
そのためには、いき続けなくてはならない。いき続けていてこそ、目的も明らかになるのである。『われあり ゆえにわれ求む』というのが私の立場だ。

(...)

自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人々がつくった物語を『信じる』という道もある。

<悟り>という物語。<来世>という物語、<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる。五木寛之『人生の目的』[100]

人生の目的を得るとは、何らかの「人生の物語」を持つ、ということであり、そのためには、物語を自分で作るという方法と、偉大な物語を信じる(=信仰を持つ)という方法がある、ということが示されているのである[100]

各宗教における諸見解

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教において人生の目的は、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)、モークシャ(解脱,輪廻からの解放)である[101][102]。これら4つの目標はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている[103]

脚注

注釈

  1. ゴーギャンたちは、タヒチの現地人が使う鮮やかな布地を「熱帯のエキゾチズムの典型」として描いたが、これらの布地はもとはフランスからの輸入品だった[1]近代西洋の産物(○○イズム)が非西洋の土着文化として誤解・誤用されているという点で、反西洋主義反合理主義は、タヒチの布地に喩えられる[1]
  2. この問いかけは、次のような様々な形式で表現されてもいる。
    • 人生の意義とは? それは一体何なのか? 私たちは何者なのか?[2][3][4]
    • なぜ私たちはここにいるのか? 何のために私たちはここにいるのか?[5][6][7]
    • 生命の起源は何なのか?[8]
    • 人生の本質は何なのか? 現実にはどういった性質をもっているのか?[8][9][10]
    • 人生の目的は何なのか? 各個人の人生の目的は何なのか?[9][11][12]
    • 人生の意義は何なのか?[12]
    • 人生において意味と価値があるものは何なのか?[13]
    • 人生の価値は何なのか?[14]
    • 生きる理由は何なのか? 私たちは何のために生きているのか?[7][15]
  3. 諸宗教を科学や近代社会への対抗概念として、または新しい「科学」的概念として創り直した運動の中心は、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人らの神智学だった[90]。言い換えれば、近代に入って諸科学や経済が急速に発展しグローバル化する中で、世界各地の宗教・神話・伝統も一種の「グローバル化」を遂げていった[91]。そこでは多種多様な思想が、社会進化論を筆頭とする疑似科学をも取り込んで、折衷的に融合していった[92]。その代表例はキリスト教ユダヤ教カバラ)、仏教ヒンドゥー教スピリチュアリズム(心霊主義)、輪廻転生論、西洋オカルティズム(西洋隠秘学)、グノーシス主義新プラトン主義フリーメイソン魔術論、ドイツ神秘主義アーリア神話(アーリアン学説)、陰謀論秘密結社論)等であると考えられている[92]
  4. 具体例:「自分こそは他の人々に先んじて高度な霊性に到達した人間である」という思考[93]
    精神的・霊的に「最高度」である者が崇拝され、他の成員たちは、その者の意思に全面的に服従しようとする[93]。こうした想い・考えについて理解しない者や批判する者に対しては、「霊性のレベルが低い」「低級霊や悪魔に取り憑かれている」「動物的存在に堕している」といった差別や攻撃を行う[93]
  5. 具体例:「目に見えない世界の法則をついに探り当てた」という喜び興奮・楽観と、その裏にある被害者意識や不安[93]
    自分たちの思想や団体が社会によって認知され、一定の批判を受けるようになると、精神的・魂的な楽観が被害妄想へと切り替わる[93]。しばしば陰謀論的であり、「目に見えない」の勢力やネットワークが、自分たちを「攻撃・迫害」しており、「真理」を「隠蔽」しようとしている等と思い込む[94]
  6. 具体例:「人間の霊魂は死後も永遠に存続する」という原始的観念と、近現代科学(現代宇宙論)との混同[95]
    結果として、
    • 人類登場以前または地球誕生以前から、(人間の)霊魂が既に存在していた
    • 歴史上、光の勢力と闇の勢力が戦い続けてきた
    • 人類は別の惑星の文明から地球へ来た、または、有史以前に科学文明を発達させていた
    等の、超古代文明的・超古代史的な妄想が発展していく[95]終末論最後の審判最終戦争論等)も関わっている可能性がある[95]

出典

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  23. 神谷は、4つの問いを挙げているが、特にここに挙げた最初の2つが重要であるとしている。
  24. 神谷(1980) p.34
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  34. 神谷(1980) p.176
  35. 「意味への意志」への欲求不満からおこってくる神経症は、全神経症の14%を占める、という(フランクル『神経症』)(神谷(1980) p.176)
  36. 神谷(1980) p.181
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  100. 諸富 祥彦、2005、『人生に意味はあるか』、講談社
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参考文献

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  • ニーチェ, フリードリヒ『この人を見よ』丘沢静也訳、光文社、2016年。ISBN 978-4334753412。
  • 諸富祥彦『生きがい発見の心理学』新潮社、2004年。ISBN 410467401X
  • 諸富祥彦『人生に意味はあるか』講談社現代新書、2005年

関連書籍

関連項目

外部リンク

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