ロード・リヨン・キング・オブ・アームス

ロード・リヨン・キング・オブ・アームスLord Lyon King of Arms)は、コート・オブ・ザ・ロード・リヨン(リヨン裁判所)の長であり、スコットランドにおける紋章の記録や新たな紋章の認可を管轄する。スコットランドの国務大官の中では最下位に位置し、敬称は「閣下」。なお、リヨン裁判所は現存する紋章を管轄する裁判所として、世界最古のものである。

以前はHigh Sennachieと呼ばれており、「ロード・リヨン」という呼び名はスコットランドの紋章の一部であるライオンから来ている[1]。19世紀まではリヨン補佐官が置かれ、実務を執り行っていたが、1866年以降設けられていない。

職務

リヨン卿はスコットランドにおいての国家儀式の監督、個人や団体への新たな紋章の認可、系図や既存の紋章の使用権の承認、クラン氏族長やクランタータンの記録を行う。リヨン卿が紋章を記録する登録簿(Public Register of All Arms and Bearings in Scotland)は1672年からのものである[2]

リヨン裁判所は政府機関であるため、紋章の付与に支払われる手数料は大蔵省に納められる。許可なき紋章の使用はスコットランドでは脱税とみなされ、犯罪とされる。紋章に関する裁判はリヨン卿を唯一の裁判官とするリヨン裁判所にてなされ、控訴は民事上級裁判所(Court of Session)に対して行われる。ただし、紋章の不認可に関しては行政手続きの一環であるため控訴はできず、司法審査英語版が可能なのみである。

イングランドでの相当職

ロード・リヨン・キング・オブ・アームスの宝冠

イングランドにおいてのロード・リヨン・キング・オブ・アームスに相当する職は分野によって複数存在する。

  • 国家儀式の統括と紋章の交付という点では軍務伯がこれに相当する。
  • 紋章官としてはイングランドには以下の3人のキング・オブ・アームスが存在する。なお、ロード・リヨン・キング・オブ・アームスとは異なり紋章の交付は軍務伯の権限である。
  • 紋章を管轄する裁判所としてはハイ・コート・オブ・シバリー(High Court of Chivalry)が存在するが、民事専門の裁判所であり、最後に開かれたのは1954年である。これに対しリヨン裁判所は刑事裁判所としての機能を併せ持ち、紋章が不正に使用されている部分の破壊を行うことができるなど強い権限を持つ。

リヨン卿はスコットランド国王旗英語版である「ライオン・ランパント」を使用することのできる数少ない人の一人である[3]

シンボル

1998年にリヨン卿の職位を示すカラー英語版が新調された。これは40の金の環をつなぎ合わせたもので、スコットランド専用のものとしては1746年のカロデンの戦い後に行方不明になったもの以来である(新調以前はイングランドのキング・オブ・アームスと同様のものを使用していた)[4]

また、2003年には、スコットランド国王冠英語版のデザインをベースに、リヨン卿の宝冠も新調された[5]エリザベス王太后の宝冠と同様、不敬にあたるのを防ぐために戴冠式の際にはアーチの部分が取り外せるようになっている[6]

歴代リヨン卿・補佐官

ロード・リヨン・キング・オブ・アームス

サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント。ルネサンス期の詩人および外交官で1542年~1554年にリヨン卿を務めた。
初代準男爵サー・ジェームス・バルフォア。歴史学者、年代記編者で1630年~1654年にリヨン卿を務めた。クロムウェルにより解任。
1673年制作のリヨン卿の印章。リヨン卿の紋章をかたどっている。
第19代ブロディ氏族長アレクサンダー・ブロディ。1727年~1754年にリヨン卿を務めた。政治的な報酬として任命されたが仕事には真面目に取り組んだとされる。
第11代キノール伯爵トマス・ヘイ=ドラモンド。1804年~1866年にリヨン卿を務めた。リヨン卿を閑職ととらえ、任務のほとんどを補佐官に任せていたとされる。
サー・ジェームス・バルフォア・ポール。スコットランドについての著書が多くある学者兼弁護士で、1890年~1926年にリヨン卿を務めた。
サー・フランシス・グラント(左)1929年~1945年にリヨン卿を務めた。
写真は1933年にヨーク公(のちのジョージ6世)(中央)と共にセント・ジャイルズ大聖堂へ行進しているところ。
サー・トーマス・インズ・オブ・レアニー。1945年~1969年にリヨン卿を務めた。
イギリス国章をあしらった(スコットランド国章が強調されている)タバードを着て、職杖を持っている。
個人紋章 名前 在職期間 備考 脚注[7]
不明 (1377年)~1399年 1318年にロバート1世がリヨン卿を設けたという説があるが、真偽は不明である。アブロアス修道院の修道士であったウィリアム・デ・ピッテンウィームが15世紀に唱えたのがこの説のはじめとされる。
大蔵省などの記録によれば、リヨン卿(当時は「リヨン・ヘラルド(Lyoun Herauld)」)が設けられたのは1377年だとされている。
[8]
ヘンリー・グレーヴ

Henry Greve
1399年頃 リヨン卿自体は1999年以前から存在したと思われているが、在職者の記録は1399年が初めである。

1399年のイングランドの公文書に「スコットランドの紋章官の長(King of Scottish Heralds)」であるヘンリー・グレーヴがイングランド王ヘンリー4世の戴冠式(あるいはその直後)にロンドン塔にいたという記録が残されている。
このころ、リヨン卿はイングランド及びフランスに対する外交使節の一員として度々記録されている。
[9]
?・ダグラス

... Douglas
1400年~1421年 1391年以降、ダグラスの名前がHerald of the Kingとして頻繁に記録されている。また、1421年にはLyon Heraldとして記録されている。
アレクサンダー・ネアーン・オブ・サンドフォード

Alexander Nairne of Sandford
1437年~1450年 サンドフォード家創設者、リヨン卿、王室会計官英語版 [10]
ダンカン・ダンダス・オブ・ニューリストン

Duncan Dundas of Newliston
1450–1471 ジェームス・ダンダス・オブ・ザット・イルクの次男。イングランドへの外交使節として頻繁に派遣された。ニューリストン男爵量を得て、ダンダス家の分家であるダンダス・オブ・ニューリストン家を創設した。 [11]
ザ・レアード・オブ・ウッドヘッド

The Laird of Woodhead
1471年~1481年 [12]
不明 1481年~1489年 名前は不明だが、このリヨン卿は1484年に国王の「sympell servant」としてフレミング卿夫人の苦情によってカンバーノールドに派遣されている。

公文書につけられた印章が残っており、それは3つのミュレット(星)の間に三日月が配置されていることから、名前がアーバスノットもしくはマレーだったのではないかとも推測される。
[13]
サー・アンドリュー・マレー・オブ・トリュイム

Sir Andrew Murray of Truim
1489年~1496年 前職はアルバニー・ヘラルド英語版もしくはイズレー・ヘラルド英語版
ヘンリー・トムソン・オブ・ケイルー

Henry Thomson of Keillour
1496年~1512年 トムソンはリヨン卿として複数の外交使節としての派遣を経験している。1505年にはジェームス4世の代理としてデンマークに赴き、ジェームス4世のいとこにあたるデンマーク王ハンスにスコットランドがデンマーク・スウェーデン戦争英語版に艦船を派遣することができないことを伝える役目を負っている。

前職はイズレー・ヘラルド。

[14]
サー・ウィリアム・カミング・オブ・インバーアロッキー

Sir William Cumming of Inverallochy
1512年~1519年 カミングはジェームス4世からイングランド王ヘンリー8世への最後通牒を1513年8月11日にフランスのテルアンヌ英語版にて手渡すという重責を負っている。この時の会話の記録が残されており、また、ヘンリー8世がこの条件をのまなかったことでスコットランドとイングランドの間に戦争が勃発した。このことからフロデンの戦いでの敗北には立ち会っていないが、1513年9月21日のジェームス5世の戴冠式には出席している。
1514年には、アンガス伯爵英語版とジェームス4世の未亡人であるマーガレット・テューダーの結婚についての伯爵の召喚状を届けた際、祖父にあたるドラモンド卿英語版によって暴行を受けた。リヨン卿の地位の神聖さにより、ドラモンド卿はブラックネス城に監禁され、全財産を没収されたが、数か月の獄中生活ののち放免された。
前職はマーチモント・ヘラルド英語版
[15][16]
トマス・ペティグリュー・オブ・マグダーレンサイド

Thomas Pettigrew of Magdalensyde
1519年~1542年 ペティグリューについてはあまり記録が残っていないが、任期の大半の期間において実際の業務はペティグリューの死後リヨン卿についたサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントによって行われていたという。

前職はアンガス・ヘラルド英語版

[17][18]
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント

Sir David Lindsay of the Mount
1542–1554 リンジーはリヨン卿であるとともにスコットランド朝廷の桂冠詩人でもあり、前者として紋章に関わる業務に携わったり外交使節として海外に派遣されたほか、後者としては宗教や国体の改革について自由に意見を述べ、スコットランド宗教改革の中心的詩人になった。

1531年6月の最初のリヨン卿としての海外への派遣では、神聖ローマ皇帝カール5世の朝廷に出向き、スコットランドとオランダとの同盟を100年間延長した。
また、「スコットランド貴族・郷紳紋章記録簿(The Register of Arms of the Scottish Nobility and Gentry)」の作成を命じたのもリンジーである。これは1542年に完成したものの、1821年まで出版されることはなかった。
リヨン卿としての給料はファイフのルスリー英語版の土地から得た。
前職はスノーダウン・ヘラルド英語版

[19]
サー・ロバート・フォーマン・オブ・ルスリー

Sir Robert Forman of Luthrie
1555年~1567年 フォーマンは1540年にパーシバントになり、その年の11月にはロス・ヘラルド英語版に昇格した。1561年にメアリー・オブ・ギーズによってリヨン卿に任命され、収入は前任者の多くと異なりコレシー英語版ではなくラシレットから得た。1567年に引退。

複数の紋章記録簿を統合した「リヨン卿記録簿(Register of Lord Lyon)」を作成した。

サー・ウィリアム・ステュアート・オブ・ルスリー

Sir William Stewart of Luthrie
1567年 前職はロス・ヘラルドで1568年2月20日付でリヨン卿に就任した。しかし、摂政ジェームス・ステュアートに対する殺害未遂疑惑によって半年もしないうちに職を解かれて逮捕され、翌1569年8月16日にセント・アンドリュースにて火刑に処された。 [20]
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ラシレット

Sir David Lindsay of Rathillet
1568年9月13日年9月13日~1591年 3代前にリヨン卿を務めたサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントとは兄弟もしくは異父母兄弟の関係にあたるとされる。

1554年以前にはディングウォール・パーシバント英語版を務めており、1561年にロスシー・ヘラルド英語版、1568年にリヨン卿に昇格した。
1591年に死亡すると甥のサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント(2世)が後を継いだ。

サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント(2世)

Sir David Lindsay of the Mount (Secundus)
1591年12月25日~1620年 リヨン卿に就く2人目のサー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントは1人目の兄弟のアレクサンダー・リンジーの子供であった。

就任式は1592年5月2日に行われ、ジェームス6世自らが戴冠を行った。
1620年に義理の息子にあとを譲り、その2年後に生涯を終えた。

サー・ジェローム・リンジー・オブ・アナットランド

Sir Jerome Lindsay of Annatland
1620年11月8日~1630年 リンジー・オブ・デュニオ・アンド・アナットランドは前任者サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウントの娘と結婚しており、一族のリヨン卿就任者の最後にあたる。
初代準男爵サー・ジェームス・バルフォア

Sir James Balfour of Denmilne and Kinnaird, 1st Baronet
1630年4月20日~1654年 バルフォーは1630年に30歳でリヨン卿に任命され、紋章官経験もなかったが、よく務めていたという。

1654年の退任はオリバー・クロムウェルによるもの。

サー・ジェームス・キャンベル・オブ・ローヤー

Sir James Campbell of Lawers
1658年5月13日~1660年 王政を撤廃し共和制を打ち立てたクロムウェルであったが、紋章官制度については維持し、2人のリヨン卿を任命している。

1人目にあたるのがこのキャンベルで、1658年5月13日にウェストミンスターにて任命されている。

後任はギルバート・ステュアートという人が務め、王政復古の際に職を剥奪されている。

サー・アレクサンダー・ダーハム・オブ・ラーゴ

Sir Alexander Durham of Largo
1660年8月28日~1663年 スコットランド王党派においての働きに対する報酬として任命。1663年に死去。
初代準男爵サー・チャールズ・アースキン

Sir Charles Erskine of Cambo, 1st Baronet
1663年1月4日~1677年  

1663年にチャールズ2世によって任命。
現在使用されているスコットランド全紋章公開記録簿英語版はサー・チャールズが開始したものである。なお、それ以前に使用されていた一覧簿は焼失・紛失やクロムウェルによって没収されたのか、発見されていない。
1677年6月27日に息子を「助手兼後継者」としてリヨン卿を共同で務めるようにすることに成功し、同じ年に死去した。

第2代準男爵サー・アレクサンダー・アースキン

Sir Alexander Erskine of Cambo, 2nd Baronet
1677年~1726年 前述の計らいにより、サー・チャールズの死後、リヨン卿の座は息子のアレクサンダーにわたった。

有能な人材であり、1702年には時期リヨン卿を息子のアレクサンダーにする特許を得て、世襲のものとする事を宣言したが、息子に先立たれてしまった。
親戚の第23代マー伯爵ジョン・アースキンに誘われたのか、1715年ジャコバイト蜂起にも参加している。
1735年に死去しているが、リヨン卿からはそれ以前に解任されたと思われる。

第19代ブロディ氏族長アレクサンダー・ブロディ

Alexander Brodie, 19th of that Ilk
1727年7月6日~1754年 ブロディ城英語版の城主であり、1720年にエルギンシャー英語版から庶民院議員に選出され、ウォルポール=タウンゼンド内閣の熱心な支持者であった。そのことによってリヨン卿に任命され、年間300ポンドの報酬を与えられた。
権威に対して遠慮したりひいきをしたりすることなく業務を行うことで知られ、また、ハノーヴァー朝の支持者であったのにもかかわらず、ジャコバイト派の職員を守り、給料の減額を防いだり死刑からの恩赦を得たりした。
[21][22]
ジョン・フック=キャンベル・オブ・バンゲストン

John Hooke-Campbell of Bangeston
1754年4月3日~1795年 キャンベル・オブ・コーダー氏族英語版の一員でジョン・キャンベル初代コーダー男爵英語版の甥にあたる。母親の一族からウェールズの資産を受け継いだとみられ、紋章一覧簿に「キャンベル=フック」の名前で紋章を登録している。

特に任期後半においてはエディンバラにいることは少なかった。1795年に急死した。

[23]
ロバート・ボスウェル・オブ・セント・ボスウェルズ

Robert Boswell of St. Boswells
1795年~1796年 サミュエル・ジョンソンの伝記を書いたジェームス・ボスウェルのいとこにあたり、1770年からリヨン官吏とリヨン補佐官を務めていた。

1789年にはリヨン補佐官としてエディンバラ大学に対する紋章交付状に署名している。
ジョン・フック=キャンベルの死後、キノール伯爵のリヨン卿任命まで暫定リヨン卿を務めた。

第10代キノール伯爵ロバート・オリオール・ヘイ=ドラモンド 1796年5月26日~1804年 1751年にヨーク大主教ロバート・ヘイ・ドラモンド英語版の子として生まれる。

ドラモンドの姓と紋章は父親のロバートが曾祖父であるストラスアラン子爵英語版から1739年に、キノール伯爵英語版の地位はロバート・ヘイ=ドラモンドが伯父のトーマス・ヘイ英語版の死を受けて1787年12月27日に受け継いだものである。
1796年に枢密顧問官となり、リヨン卿に就任した。1804年に死亡するまでの8年の任期中、業務の多くは補佐官によって行われた。

[24]
第11代キノール伯爵トーマス・ロバート・ヘイ=ドラモンド

Thomas Robert Hay-Drummond, 11th Earl of Kinnoull
1804年4月12日~1866年 前任者ロバート・ヘイ=ドラモンドとその2番目の妻サラ・ハーレー(ロンドン市長トマス・ハーレー閣下の娘)の間にバースで生まれた。
1804年に父親の跡を継いでリヨン卿となったが、父親同様職務は補佐官に代行させた。
リヨン卿以外では1809~55年にパースシャー民兵の大佐を、1830~66年にはパースシャー英語版統監を務めた。
1866年にトーキーで死去。
[24][25][26]
ジョージ・バーネット

George Burnett
1866年7月26日~1890年 1822年にケムネー英語版第5代当主ジョン・バーネットの息子として誕生。
1845年に法廷弁護士会英語版に入会が認められ、1863年にリヨン補佐官に任命され事実上の紋章官トップとなった。3年後にキノール伯爵の跡を継ぎ四半世紀近くの間リヨン卿を務めた。
[27]
サー・ジェームス・バルフォア・ポール

Sir James Balfour Paul
1890年3月12日~1926年 1846年に誕生、エディンバラ王立高校英語版エディンバラ大学で教育を受け、1870年に法廷弁護士に認められた。1879~90年に友愛組合英語版登記官、1883~1902年に法廷弁護士会会計を務め、1890年にリヨン卿に就任した。1900年に騎士号を与えられ、1926年の引退直前にはロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・コマンダーに叙せられている。また、聖ヨハネ騎士団コマンダー、シッスル騎士団秘書官、スコットランド好古家協会英語版フェローなどの称号を受けている。 [28][29]
ジョージ・シットウェル・キャンベル・スウィントン

George Sitwell Campbell Swinton
1927年~1929年 1859年に生まれ。陸軍の軍人として第71歩兵連隊(ハイランド)英語版に配属され、1888~94年にはインド総督副官を務めた。保守党の政治家として複数の地方職を務め、また、マーチ・パーシヴァント英語版を務めた。1923-26年にアルバニー・ヘラルド、1927~29年にリヨン卿およびシッスル騎士団秘書官を務めた。 [30]
サー・フランシス・ジェームス・グラント

Sir Francis James Grant
1929年~1945年 1884-88年にマーチモント・ヘラルドを務めたジョン・グラントの息子として、1863年に生まれた。

1886年5月17日にカリック・パーシヴァント英語版に任命され、1898年9月8日にはロスシー・ヘラルド兼リヨン官吏記録管理官に昇格した。1929年5月10日にリヨン卿に任命され、1935年にはロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられた。1945年6月30日に引退。

[31]
サー・トーマス・インズ・オブ・レアニー

Sir Thomas Innes of Learney
1945年~1969年 1893年に生まれ、1926~35年にカリック・パーシヴァント、1935~45年にアルバニー・ヘラルドを務めた。1967年6月10日にロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられ、1969年に引退した。 [32]
サー・ジェームス・モンテイス・グラント

Sir James Monteith Grant
1969年~1981年 1903年に生まれ、エディンバラ・アカデミー英語版およびエディンバラ大学で教育を受けた。1927年にライター・トゥー・ザ・シグネット英語版に認定され、1946~57年にカリック・パーシヴァント、1957~69年にマーチモント・ヘラルドを務めた。1969年にリヨン卿に任命され、ロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられた。1981年に引退。 [33]
サー・マルコム・インズ・オブ・エディンガイト

Sir Malcolm Rognvald Innes of Edingight
1981年~2001年 サー・トーマス・インズ・オブ・レアニーの息子として1938年に生まれる。1957~58年にフォークランド・パーシヴァント英語版、1958年~1971年にカリック・パーシヴァント、1971年~81年にマーチモント・ヘラルドを務め、1966年以降はリヨン官吏も兼任していた。1981年にリヨン卿に任命され2001年に引退、オークニー・ヘラルドとなった。スコットランド紋章学会英語版共同発起人、元会長、フェローであるとともに、スコットランド系譜学会名誉会長を務める。1990年にロイヤル・ヴィクトリア騎士団ナイト・コマンダーに叙せられている。 [34][35]
ロビン・オー・ブレア

Robin Orr Blair
2001年~2008年 1940年生まれで元事務弁護士。法律事務所のダンダス&ウィルソン英語版及びトルカン・コネルでパートナーを務めた。2001年2月9日にリヨン卿に任命されており、EUの公共職任命規則にのっとったリヨン卿として初めての任命であるとともに、王室府英語版の上級職としてロンドンのイギリス政府ではなくスコットランド行政部(現在のスコットランド政府)によって任命された初の例である。2008年に引退し、ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダーを授与された。 [36]
ウィリアム・・デイヴィッド・ハミルトン・セラー

William David Hamilton Sellar
2008年~2014年 1941年に生まれ、オックスフォード大学で歴史を学び教養学士を取得した後エディンバラ大学で法学学士英語版を取得した。1966年に事務弁護士となり、1968年からのちに名誉フェローの称号を受けるエディンバラ大学法学部に入った。2008年にリヨン卿に就任し2014年に引退、同年ロイヤル・ヴィクトリア騎士団メンバーに叙せられた。 [37][38]
ジョセフ・ジョン・モロー

The Reverend Canon Dr. Joseph John Morrow
2014年~ 神学と法学で学位を持ち、律修司祭であるとともに法廷弁護士会の会員である。2014年1月17日に任命され、同年2月27日からリヨン卿を務めている。 [39][40]

リヨン補佐官

個人紋章 名前 任命[7][12] 備考
サー・ウィリアム・カミング・オブ・インバーアロッキー

Sir William Cumming of Inverallochy
1508年 マーチモント・ヘラルド兼任

1512年リヨン卿就任
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント

Sir David Lindsay of the Mount
1528年 スノーダウン・ヘラルド兼任

1542年リヨン卿就任
サー・ロバート・フォーマン・オブ・ルスリー

Sir Robert Forman of Luthrie
1554年 ロス・ヘラルド兼任

1555年リヨン卿就任
サー・デイヴィッド・リンジー・オブ・ザ・マウント(2世)

Sir David Lindsay of the Mount (Secundus)
1568年 1591年リヨン卿就任
トーマス・リンジー

Thomas Lindsay
1591年
トーマス・ドライスデール

Thomas Drysdale
1627年 イズレー・ヘラルド兼任
ローレンス・オリファント

Laurence Oliphant
1631年1月31日 法廷弁護士
ハリー・モール・オブ・メルグンド

Harry Maule of Melgund
(1636年)
サー・デイヴィッド・バルフォア

Sir David Balfour
1650年3月20日 法廷弁護士
1630年リヨン卿就任
後に民事上級裁判所判事
ニュービス卿サー・ジョン・バード

Sir John Baird, Lord Newbyth
1663年8月15日 法廷弁護士
1664年民事上級裁判所判事就任
ウィリアム・トムソン・オブ・フェアリーホープ

William Thomson of Fairliehope
1666年1月4日
ジェームス・スキーン

James Skene
1677年11月10日 共同

キンタイア・パーシヴァント兼任
ロバート・インズ・オブ・ブレアタウン

Robert Innes of Blairtoun
1677年11月4日 共同
1687年11月10日から単独
ジェームス・ダグラス・オブ・エーンスロー

James Douglas of Earnslaw
1689年5月5日
デイヴィッド・アースキン

David Erskine
1724年6月6日 ロスシー・ヘラルド兼任
ジョン・ダンダス・オブ・ニューホールズ

John Dundas of Newhalls
1728年11月1日
トーマス・ダンダス・オブ・フィンガスク

Thomas Dundas of Fingask
1744年6月18日 オークニー&シェトランド選出国会議員
トーマス・ブロディ

Thomas Brodie
1754年8月30日
ロバート・ボスウェル・オブ・セント・ボスウェルズ

Robert Boswell of St. Boswells
1770年11月2日 1795年のフック=キャンベル卿の死から翌1796年のキノール卿の就任までの間、暫定リヨン卿を務める。
ジェームス・ホーム・オブ・リンハウス

James Home of Linhouse
1796年8月8日
デイヴィッド・クライン

David Clyne
1819年2月21日 暫定
ジョージ・テイト

George Tait
1819年4月24日 暫定
ジョージ・クラーク・クレイギー・オブ・ダンバーニー

George Clerk Craigie of Dumbarnie
1823年4月1日 法廷弁護士
ジェームス・ティトラー・オブ・ウッドハウスリー

James Tytler of Woodhouselee
1827年6月2日 共同

1845年から単独
ジョージ・バーネット

George Burnett
1863年11月9日 1866年リヨン卿就任
1866年に廃止

脚注

  1. Moncrieffe, Ian; Pottinger, Don. Simple Heraldry Cheerfully Illustrated (英語). Thomas Nelson and Sons. p. 48.
  2. Moncrieffe, Ian; Pottinger, Don. Simple Heraldry Cheerfully Illustrated (英語). Thomas Nelson and Sons. p. 63.
  3. The Court of the Lord Lyon website
  4. Holme, Chris; Duncan, Raymond (1998年10月19日). “A Yankee sorts the Court of Lord Lyon”. The Herald (Glasgow). http://www.heraldscotland.com/news/12254858.A_Yankee_sorts_the_Court_of_Lord_Lyon/ 2018年2月25日閲覧。
  5. “Lord Lyon gets his crown back”. The Scotsman. (2003年7月13日). https://www.scotsman.com/news/lord-lyon-gets-his-crown-back-1-1291530 2018年2月25日閲覧。
  6. Stevenson, J. H. (John Horne); Seton, George (1914). Heraldry in Scotland : including a recension of 'The law and practice of heraldry in Scotland' by the late George Seton. Glasgow, J. Maclehose. pp. 445–446. https://archive.org/details/heraldryinscotla02stev
  7. Campbell-Kease, John (1 March 2018). The Heraldry Society (英語). Coat of Arms no 179.
  8. Fox-Davies, Arthur Charles (1909). A complete guide to heraldry. London ; Edinburgh : T.C. & E.C. Jack. pp. 40. https://archive.org/details/completeguidetoh00foxduoft
  9. Rogers, Charles; Grampian Club (1871–72). Monuments and monumental inscriptions in Scotland. London: London : Pub. for the Grampian Club [by] C. Griffin. pp. 414. https://archive.org/details/monumentsmonumen02rogeiala
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