ヘンドリック・ドゥーフ

ヘンドリック・ドゥーフHendrik Doeff1777年12月2日 - 1835年10月19日)は、オランダフランス革命軍占領され、オランダ東インド会社が解散した後の主にナポレオン戦争中の1803年-1817年に、出島オランダ商館長(カピタン)に就き、米国船などを雇い貿易を行ったオランダ人。単にヅーフとも呼ばれる。ドゥーフが商館長在任時にフェートン号事件が起きた。イギリスのジャワ島占領出島の引き渡しを拒んだ。蘭日辞典『ドゥーフ・ハルマ』の編纂を主導した。

ヘンドリック・ドゥーフ
日本で描かれたドゥーフ(司馬江漢作)

経歴

ヨーロッパフランス革命戦争ナポレオン戦争が勃発し、戦乱とも呼べる荒れた時期にアジア貿易に携わった。ネーデルラント連邦共和国1795年フランス倒されその衛星国バタヴィア共和国代わると、インドネシアにあったオランダのアジア貿易の拠点バタビアバタヴィア共和国の配下に置かれたが、1799年にオランダ東インド会社も解散した。1810年フランスオランダを併合した。1811年にフランスと敵対するイギリスが東南アジアの植民地を接収した。また、1795年からイギリスと戦争状態だったので、1797年にオランダ東インド会社がアメリカ船Eliza of New York号を雇ったのを始めとして、アメリカ、デンマーク、ドイツ(ブレーメン)などの船を雇っていた。オランダ国旗を掲げてオランダ東インド会社の社員が乗っており、またそこに雇われオランダの荷物のみを積んでいるとされる船のみ入港を許可された。1807年に、長崎から出港したオランダが雇ったアメリカ船マウントバーノン号がマカオでイギリス軍艦ディスカバリー号から攻撃を受けた(ポルトガルが仲介した)。1809年には、次期商館長クルイソフを乗せたアメリカ船レベッカ号がイギリスに拿捕された。1809年のオランダ船Goede Trouwの後はオランダ領東インド政府は船を出さなかった。この状態は植民地を取り返した1817年まで続いた。

船のブローカーでアムステルダム市の評議会に一度参加した父(ヘンドリック・ドゥーフ)のもとに1777年アムステルダムでうまれ、ルーテル教会から洗礼を受ける。ナポレオン戦争によるオランダ占領で勤めていた会社が倒産した後、1798年オランダ東インド会社に就職し、中立国デンマークヘルシンゲル経由でデンマーク船で1799年バタビアに行き、そこから中立国アメリカのフランクリン号[1] [2]で長崎の出島に向かった(これはオランダ船はイギリスからの攻撃を避けられなかったからである)[3]。長崎到着後、オランダに対する銅の割り当てが減らされており、また商館長ヘイスベルト・ヘンミーが前年に死に、出島で大火があり大半の建物が破壊されている惨状を見て、バタヴィアに報告するために同じ船で戻り、また翌年筆記者として新商館長ウィレム・ワルデナールとアメリカ船マサチューセッツ号で日本に入国した。

ドゥーフは、就任前の1797年からすでに長崎の出島でスタートしていた日米貿易を1808年まで引き継いだ(黒船来航参照)。なお、この日米貿易は、米国船が入港する際、オランダ国旗を立てさせてオランダ船に見えるよう偽装させて行われたもの。米国船との貿易の始まりは、オランダ東インド会社解散までの数年間経営を引き継いだフランスの衛星国バタヴィア共和国が、米国船と傭船契約を交わしたためである。当時の米国船は、米国が中立国であったために、オランダの滅亡に伴って英国の支配下となった東南アジアの海域を安全に航行することができた。しかし、いかなる理由で、安全を保障された米国船が、すでに滅亡したオランダの国旗を掲げて入港したのかは明らかでない(ナポレオン戦争の英仏対立によりアメリカ船も攻撃を受けていたが、特に通商禁止法 (1807年)により通商できなくなったアメリカ船が太平洋に振り向けられ、オランダに雇われていたとされる)。

1803年にアメリカ船レベッカ号を通じ商館長に任命される。その直後、アメリカ国旗を掲げたヨーロッパ船が入港した。船長はベンガル広東から来て荷物はアメリカ所属の自分のもので、アメリカ王トーマス・ジェファーソン大統領が自由貿易を求めていると主張した。この船長は前述のEliza of New Yorkの船長William Robert Stewartであった。彼は1800年にもブリッグ (船)Emperor of Japanで来航した。船長だった傭船Eliza of New Yorkを海上で失い、その負債を払うためマニラEmperor of Japanと荷物を購入して日本に来たと主張したが、ウィレム・ワルデナールの調べで同一の船だった事がわかった。結局彼の試みは失敗し、マサチューセッツ号でバダヴィアに送られ取り調べを受けている最中に、ベンガルへ逃走した。今回の申し出は日本側から拒否され、油と水の供給をうけて長崎を去った。ウィレム・ワルデナールは彼はイギリス人で荷物は”doctor”のものだと疑っていた。同じ年にイギリス東インド会社の旗を掲げた船長ジェームズ・トリー率いるフレデリック号がベンガルから来航した。船長はStewartの名前を聞くと怒りを抑えているようにみえた。彼も自由貿易を求めたが、2日後に拒否されて長崎を出港した。

1804年、オランダ船と新聞によりロシア使節が来航する事が分かり日本側に通知する。10月7日ニコライ・レザノフ率いる、ロシア皇帝アレクサンドル1世による遣日使節が長崎に来航した。長崎奉行肥田頼常の求めでドゥーフも船の調査に同行した。レザノフが見せた政府、アジアの領土の評議会、在ロシアオランダ大使の書状には「ロシアと友好的に接し、あらゆる方法で支援すること」とあったが、オランダが唯一欧州で日本と外交がありまた古くからの日本の反欧感情などのオランダの立場を考慮し、日露交渉から距離を置いた。また次の日には船上でロシア側と夕食を共にした。日本で療養中のバタヴィア軍の船長Van Pabstも同伴した。使節は上陸を許可されなかった。ドゥーフは長崎奉行からロシアにたいして反応しないよう指示され、オランダ船出港時にロシアからの歓声を無視するよう船長に命令するしかなかった。この件についてレザノフに詫びたのをきっかけとして、通詞を通じてレザノフとフランス語で文通を行い、また新聞も贈り、このあと様々な品の互いに送りあった。また長崎奉行からの求めで、ロシアの自由貿易の求めを断る書簡をオランダ語に翻訳した。使節は6ヶ月の滞在の後長崎を去った。

1807年6月、広東からアメリカ北西海岸へ向かう船長O'CAIN[4]露米会社にリースされたエクリプス号がアメリカ国旗を掲げ長崎に来航した。船長はドゥーフに水と薪が日本から供給されるよう日本との交渉を求めた。日本側はこれを供給したものの、対価を受け取る前に追い返した。デンマーク船Susannaによってルイ・ボナパルトオランダ国王になった事が伝えられ、日本にも通知する。同じ年に日本北東の海岸でロシアから攻撃を受ける文化露寇が起こる。ドゥーフはロシア語でかかれたロシア海軍からの書簡とフランス語で書かれた松前藩主宛の書簡を渡され、後者をオランダ語に翻訳した。

そして1808年にはイギリス海軍のフリートウッド・ペリュー率いるフェートン号がオランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ侵入したいわゆる「フェートン号事件」が発生した。フェートン号は、オランダ船と誤認して近づいてきたオランダ人2名を捕縛、彼らを人質にして長崎に対して食料や飲料水の提供を求めた。港内の和船を焼き払うと脅迫までしてきたイギリス船を前に、動員令を受けたがしかし泰平に慣れ過ぎていた鍋島藩福岡藩らの兵ではイギリス船を追い払うことが出来ず、長崎奉行松平康英はそれでも交戦も止む無しと考えていたが、ドゥーフの説得により幕府側は英国船に食料や飲料水を供給、オランダ商館も食料としてを送ったことから2名は無事に保釈され、フェートン号は長崎を去った。しかし、国威を辱めた責を感じた松平康英らが切腹するなど、日本の幕府側でも混乱が続いた。

1813年、4年間バタヴィアから隔絶された状況の中、オランダ国旗を掲げた船2隻(CharlottaMary)が来航した。取り決めに従いオランダ船である事が確認され、船長は前商館長ウィレム・ワルデナールだった。しかし乗船後、オランダ領東インドはイギリスに接収されホラント王国フランスに併合され、彼はジャワ副総督トーマス・ラッフルズの指揮下でAinslie氏とともに弁務官に任命された事を告げられる(Cassa氏が次期商館長として同乗してきた)。だが情報が外部から入らない状況で、ドゥーフはオランダがなくなったという情報は敵国による策略だと考えた。5人の通詞にジャワが接収された事を伝えたが、幕府に伝える事は拒否される。そこで船を雇われたアメリカ船として扱い、通常通り貿易を行うが、イギリス船が焼き払われなかった代償として、ワルデナールにオランダがここ数年ため込んだ負債を肩代わりさせる事になった。この旨を合意文書でサインした。また今後もドゥーフを日本のオランダ商館長と認め、オランダ国旗を掲げ貿易する合意のもと自分の代理としてヤン・コック・ブロンホフを、オランダ海軍・植民地大臣への報告書とともにバタヴィアに送ることになった。翌年、旗を掲げていない船CharlottaがCassa氏を乗せ長崎に来航する。ナポレオンが倒されPrince of Orangeオランダの国王になった事を告げられる。これによりヨーロッパが安定する可能性がある事を幕府に伝える。しかし、トーマス・ラッフルズからの書状ではドゥーフだけでなく乗船してきたイギリス指揮下のCassa氏が日本貿易長とされ、ヤン・コック・ブロンホフに言及がないことから、前年の今後の貿易に関する合意は拒否されたと考えられた。この年も前回同様、自分がオランダ商館長として通常通り貿易を行う代わりに負債をCassa氏に肩代わりさせる事にし、合意文書にサインした。そして5人の通詞のうち本木庄左衛門[5]ら2人がCassaと通じた事により、ドゥーフも翌年に立ち去る事を幕府から命じられる。そこでドゥーフはラッフルズに宛てた5人の通詞のサインの入った、翌年Cassaが来ると危ない事を警告する書状と、オランダ領東インド総督とブロンホフに宛てた手紙を船長に託す。その後1817年まで船の来航はなかった。

1817年、2隻の船Vrouw AgathaCantonが長崎に来航する。ブロンホフが乗船しており、オランダ再独立しジャワが返還された事、そしてドゥーフに国王から、1813-4年の行いに対してオランダ獅子士勲章Knightが叙せられた事が告げられる。戦争が終わった事を幕府に報告した。ブロンホフは妻子を伴っていて長崎奉行は上陸に反対した。ドゥーフは1662年鄭成功オランダ領台湾の制圧の際に、出島がオランダ人避難民を受け入れた事に言及したが、2ヶ月後幕府から退去を命じられた。12月6日ブロンホフが商館長を引き継ぎ、Vrouw Agathaでバタヴィアに戻る。幕府からは長年の商館運営の褒美としておよそ150キログラムの銀が与えられた。オランダ領東インド総督van der CapellenEloutに迎えられる。

1819年2月16日、軍艦de Admiraal Evertsenで東インドを出発する。1ヶ月後インド洋東部で船が浸水し始め、やむなくディエゴガルシア島を目指す。あわや沈没の直前にアメリカ船Pickeringに救出され、無事ディエゴガルシア島に到達するが、荷物を全て失う。ここからモーリシャスへ向かったが、途中で妊娠中だった妻を亡くす。モーリシャスからはイギリス船Belle Allianceに乗り換える。船にはイギリスのthe 25th Light Dragoons[6]が同乗していた。ロンドン経由で10月に帰国。帰国後はオランダ東インド会社の後継会社に勤め、植民地大臣になったEloutの顧問も務めた。

1829年Emperor’s canalに面した現在のMuseum Van Loonに隣接する同一の物件を購入。1833年ハールレムで日本での体験をまとめた本『日本回想録』(蘭:Herinneringen uit Japan 英:recollections of Japan)を出版。1835年アムステルダムで死去、Muiderbergルーテル教会墓地に埋葬される。

1811年にイギリスがオランダ領東インド制圧してから1815年にオランダが再独立を果たすまでの間、出島商館は滅びたはずのオランダ国旗を掲げ続けた。この間は、イギリス船の出現が相次いだため、長崎奉行とオランダ商館は連携して臨検体制の改革を行い、連絡には秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。江戸幕府も事態を注視しており、フェートン号事件は幕府が1825年に異国船打払令を発令する遠因となった。

オランダ再独立の2年後、1817年にオランダ船が長崎港に入港し、ドゥーフは国の名誉を守ったとして、オランダより最高勲章オランダ獅子士勲章」を賜わり、17年ぶりに故国オランダへ帰国した。他のカピタンが長くても数年で帰国している中、17年もの長期間、亡国の国民でありながら故国人としての誇りを失わずに、他国の責任官として勤め上げたドゥーフは、当時の日本人にも敬意を持たれたと伝わる。

日蘭関係におけるドゥーフの貢献

ドゥーフの祖国オランダは、フランスによって倒されたことにより、日本と直接の貿易が出来なくなった。そのため、ドゥーフ達長崎のオランダ人の立場は微妙な物となった。鎖国政策を採っている日本の立場に立てば、利益を生み出さない外国人を国内に留めておく理由がないからである。

ドゥーフやオランダ東インド会社は知恵を絞った結果、ヨーロッパの戦争からは距離を置き中立の立場を取っていたアメリカ合衆国の船に目を付けた。アメリカ船をオランダ船に見せかけ、貿易の代行をしてもらうことによって、何とか細々と日蘭貿易を続けることに成功した。

長崎のオランダ人は、本来生活必需品をオランダから送られる物資に頼っていたが、本国が消滅している以上、もはや本国からの援助は期待できなかった。ドゥーフは許可を得て長崎市中を出歩いて、日本人との友好に務め、日本の好意を得て生活物資を日本から「借金」という形で援助して貰うことで、この危機を切り抜けた。ドゥーフの所蔵している本を、幕府や長崎奉行が相場以上の値段で買い取るなど、日本側も祖国を失いながら祖国の矜恃を保ち続けるドゥーフには同情的であった。幕府からの命令で、オランダ人の生活費は長崎会所が払っていた。西洋の食べ物が来ず、ドゥーフ自身手元のノエル・ショメルの辞典[7]からビールを作った。

この時期も日蘭関係が維持されたのは、ドゥーフの努力の賜と言っても過言ではない。

ヨーロッパの戦争でオランダ船の来航が絶えていた1812年から、フランソワ・ハルマ編纂の蘭仏辞書をもとに、日本語通詞を雇って蘭日辞書の編纂に着手し、ドゥーフ離日後も作業が続けられた。1833年(天保四年)に完成したこの辞書は『ドゥーフ・ハルマ』、『長崎ハルマ』と呼ばれ、蘭学研究の一助となった[8]。帰国途中にエヴァーツェン号が沈没した事により、この辞書の原版などをオランダに持ち帰る事は出来なかった。また、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがオランダ領東インド総督へ辞書とレポートを提出した際に自分に言及しなかった事が原因となって、自著Recollections of Japanを書いた。

江戸を3回訪れた。江戸では長崎奉行とともに上巳の定例の将軍謁見の儀式に参加した。儀式の後将軍付きの医者と天文学者が訪れてきて多くの質問を受け、難しく答えられないものもあった。また天文学者の高橋重賢と親しくなった。親しくなったオランダ語を解する日本人にオランダ語のニックネームを与える事があり、出島でオランダ語教えた馬場貞由にはAbrahamと名付け、またジェローム・ラランドを学んだという天文学者の高橋重賢(or高橋景保)にはGlobiusと名付けた。幕府の医官で、植物学者ラインヴァルトと文通した桂川甫賢[9]にはJohannes Botanicus、中津藩藩主奥平昌高にはFrederik Hendrik、その家臣神谷弘孝にはPieter van der Stolpと名付けた[10]。 江戸へ向かう最中には富士山の山頂で昼食を取った。また1806年に江戸で文化の大火にまきこまれた。

1808年から本木庄左衛門ら6人の日本人にフランス語を教えた

自著Recollections of Japanの中で、ヴァシーリー・ゴロヴニーンの日本に関する著作の間違いを指摘した。またエンゲルベルト・ケンペル日本誌に日本の詳述があるとしつつ、彼は日本に2年しかいなくて日本語が喋れず、オランダ領東インド総督のオランダ商館長ヨハネス・カンフフイスに負う所が大きいとした。

川原慶賀の作とされる肖像画が残されている[11]

その他

  • 日蘭貿易はかつてほど利益が上がらなくなっていて、利益が上がる貿易品は樟脳と銅だけで、当時の日蘭貿易は、日本の財務官が輸出品を希望の定まった値段で買取り商人に売り、オランダ側は日本から銅と樟脳を定まった値段で買うものだった。日本への輸出品は、スズ粉糖水銀スオウ木綿胡椒チョウジガム、オランダ産ウールなどとしている。
  • 上記の貿易以外に、個人が私的に売買するkambang貿易(脇荷)が存在した。これは長崎会所を介して行われて売り上げの一定割合を長崎会所が徴収した。銅、樟脳、武器、日本の地図、鋳造貨幣などは扱いを禁止された。イッカクの角やケシアヘンも禁止されたが、これらを夜に船乗りや遊女などが密輸して利益を得たとされる。オランダ側はサフランスペインカンゾウ磁器サンダルウッドビンロウ塩化アンモン石スウィートオイルヤシ油トウアズキコパイバ、ゴールドレザー、ペルシアンレザー、ガラス製品、ニュルンベルク産のハサミ、ナイフ、時計、鼈甲、牛の角などを扱い、日本側は蒔絵木綿日本酒、soya(醤油?)、鉄鍋、磁器、薬草の米、扇子などを商品として扱った。これとは別に商館長に銅製品を輸出する特権が与えられた。しかし1790年からこれの値段が上がったためドゥーフは特権を使わなかった。
  • 商館長の間は、日本への輸出品が1795年以前の品質に保たれず、しかも戦争によりヨーロッパから銅を輸入できないためにジャワ島での銅貨の不足が深刻になっていて多くの銅を日本から輸入しなければならないので、船を空けるために商品を捌くのに苦労した。
  • ヴァシーリー・ゴロヴニーンが著作の中で、オランダにイギリスの荷物を長崎へ届けたアメリカ船が日本から追い返されたとしているがこれは誤りで、アメリカ船はオランダの荷物を積んでいて追い返されていないと指摘した。これに関して日本はアメリカをイギリスの植民地だと思っていて、アメリカが独立したことを説明する必要があった。
  • 計8人のアメリカ人を船長として雇ったが、前述のWilliam Robert StewartMount Vernonの船長J.Davidson以外みな正直でとても信頼できる人たちだった。J.Davidsonは、常に酔っ払っていた。しょっちゅう支払いをせず、一度通詞をはたいた。ズボンを履かずにテーブルに足をのせたまま通詞を迎えその後吐いたため日本側はドゥーフに苦情を入れた。アメリカ国旗を掲げたため、ドゥーフが下げるよう命令しアメリカ国旗を降したが、オランダ国旗もともに降した。
  • フェートン号事件の後、対応策として日本はドゥーフにオランダ語とフランス語でかかれた命令書を書かせ、それを長崎に来航した船に渡してすぐに停泊させて2人の人質を日本側に引き渡しオランダ商館長に調査させてから通常業務を行うとしたが、1809年に実施したところ5時間を要したため変更し、予め信号の旗を決めておくことになった。また長崎奉行は外国船が来た際のオランダ内部の対応シナリオも作るよう指示した。
  • トーマス・ラッフルズイギリス領インド総督ミントー伯爵に宛てた報告書から、イギリスがジャワ島を占領する前からオランダの日本における利益を妨害・収奪する意図があった事は明白だったとしている。

家族

遊女の園生(そのお)との間に女児おもんをもうけるも、9歳で病死。その後、遊女の瓜生野との間に男児、道富丈吉をもうける[12][13]。道富はドゥーフの当て字。丈吉はドゥーフの計らいで地役人の唐物目利役の職を得たが、17 歳で死亡[13]。9歳で別れ、死ぬまで文通を続けた。

1818年にバタビアでElisabeth Rebecca Staboonと結婚[14]。身重の妻とオランダへ帰国途上に嵐に遭い、妻死亡[15]。1820年にアムステルダムでSara Frederick Taunayと結婚[14]。1828年子供はなく死去。1829年にHenriëtte Doeff Jacobs(1803-1868)と結婚、4人の子をもうける[14]

俳句

ドゥーフは、はじめて俳句を詠んだ西洋人としても知られる。大屋士由美佐古鮓』(みさごずし、1818年序)に「春風やアマコマ走る帆かけ船」の句が「和蘭陀人」の作として載っているが、この本にはドゥーフによるローマ字書きの跋文があり、ドゥーフ本人の作と考えられる。「稲妻の 腕(かいな)を借らん 草枕」もドゥーフの作とされる。

年表

  • 1777年12月2日 アムステルダムに生まれる。
  • 1798年3月12日 商館長ヘイスベルト・ヘンミーが2回目の江戸参府に出発。
  • 1798年4月21日 出島において火災発生。カピタン部屋の他、多くの建物を焼失。
  • 1798年6月8日 江戸参府中の商館長ヘイスベルト・ヘンミーが東海道掛川宿(現在の静岡県掛川市)で胃病により急死。
  • 1799年 出島商館の書記として来日。同年秋、逼迫していた商館の財政を立て直すために、バタビアへ帰都。
  • 1800年 新館長のウィレム・ワルデナールとともに再来日。
  • 1803年 商館長に就任。1640年(寛永17年)に幕府によって商館長の任期は1年と決められていたが、本国の戦火により任期延長[16]
  • 1806年 フランス帝国の衛星国であるホランド王国になる。
  • 1808年 英国軍艦フェートン号事件発生。遊女であった瓜生野との間に息子道富丈吉誕生。
  • 1809年2月25日 火災により焼失していたカピタン部屋が再建。
  • 1810年 オランダがフランス帝国に併合される。オランダ船の来航が途絶える[16]
  • 1812年 蘭日辞書の編纂に取りかかる[16]
  • 1813年 イギリスのジャワ副総督トーマス・ラッフルズの特命で、前商館長のワルデナールがオランダ国旗を掲げたイギリス船で入港し、オランダ商館に対し、イギリス配下になるよう要求したが、これを退ける[17]
  • 1814年 ラッフルズ、次期商館長を派遣してくるも、再び退ける[17]
  • 1815年 オランダが「ネーデルラント連合王国」として再独立。
  • 1817年 オランダ船が長崎港に入港。商館長を退任し帰国を果たす。
  • 1819年 ジャワからオランダへの途上、暴風雨により妻と日本での収集品と蘭日辞書の写しを失う[8]
  • 1833年 『オランダ獅子士勲章を賜りし出島の元商館長ヘンドリック・ドゥーフの日本回想録』(“Herinneringen uit Japan”)を著す。
  • 1835年10月19日 オランダにて逝去。

著書

関連項目

参考文献

ドゥーフが登場する作品

  • 白石一郎「孤島の騎士」『幻島記』文藝春秋、のち文庫所収

脚注

  1. http://www.cap.amdigital.co.uk/Documents/Details/Ship-s-Papers--Franklin/PEM_MH-1_B1_F3#
  2. http://pem-voyager.hosted.exlibrisgroup.com/vwebv/holdingsInfo?searchId=257&recCount=10&recPointer=4&bibId=43462&searchType=7
  3. Annick M. Doeff. (2003), Recollections of Japan: Trafford Publishing.
  4. https://www.islapedia.com/index.php?title=O%27CAIN,_Joseph
  5. 本木良永の息子
  6. https://wiki.fibis.org/w/25th_Light_Dragoons
  7. 厚生新編の原典になった辞典
  8. 出島を巡って争ったドゥーフとラッフルズが 学術的な業績をあげた話3奥正敬、京都外国語大学付属図書館GAIDAI BIBLIOTHECA 191号(平成23年1月6日発行)
  9. バタヴィア学芸協会通信会員。
  10. 松田清(2020) 『桂川甫賢筆長崎屋宴会図について』神田外語大学日本研究所 紀要 https://kuis.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1721&item_no=1&attribute_id=22&file_no=2
  11. https://artsandculture.google.com/asset/portrait-of-hendrik-doeff-kawahara-keiga/XQHQKvZWgWTbNQ?hl=ja
  12. Interracial Intimacy in Japan: Western Men and Japanese Women, 1543-1900 Gary P. Leupp, A&C Black, 2003
  13. 南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜中川清、駒沢大学外国語部論集 (58), 69-125, 2003-03
  14. Hendrik Doeff, Opperhooft van Deshima, (R.N.L)Geni
  15. Dutch Trade in Asia, Part 1: Papers of Hendrik Doeff in Japan and East IndiesNationaal Archief, The Hague & Moran Micropublications, Amsterdam, The Netherlands
  16. 出島を巡って争ったドゥーフとラッフルズが 学術的な業績をあげた話奥正敬、京都外国語大学付属図書館GAIDAI BIBLIOTHECA 191号(平成23年1月6日発行)
  17. 出島を巡って争ったドゥーフとラッフルズが 学術的な業績をあげた話2奥正敬、京都外国語大学付属図書館GAIDAI BIBLIOTHECA 191号(平成23年1月6日発行)

外部リンク

先代:
ウィレム・ワルデナール
長崎オランダ商館長
156代:1803年 - 1817年
次代:
ヤン・コック・ブロンホフ
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.