パルマ公国

パルマ公国イタリア語: Ducato di Parma)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年イタリア統一まで存続した。パルマ・ピアチェンツァ公国パルマ・エ・ピアチェンツァ公国 (Ducato di Parma e Piacenza) とも。

パルマ・エ・ピアチェンツァ公国
Ducato di Parma e Piacenza

1545年 - 1860年
(国旗) (国章)
国の標語: Dirige me Domine!

パルマ公国の領土
公用語 イタリア語
首都 パルマ
1545年 - 1547年 ピエール・ルイージ・ファルネーゼ (初代)
1854年 - 1860年ロベルト1世 (最後)
変遷
建国 1545年9月16日
ナポレオン・ボナパルトに降伏1802年11月1日
サルデーニャ王国へ併合1860年3月12日
通貨リラ
1639年のパルマ・ピアチェンツァ公国の地図
18世紀後半のイタリア。パルマ公国は濃いオレンジ色の部分

歴史

ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージ・ファルネーゼ教皇領の一部であったパルマピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。

1731年アントニオ・ファルネーゼが跡継ぎのないまま亡くなると、アントーニオの姪エリザベッタ・ファルネーゼを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。

1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリアハプスブルク家領だったナポリ王国シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポ・ディ・ボルボーネへと公位が渡った。

ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の亡くなった1847年に再び公位がブルボン=パルマ家に戻された。

1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。

関連項目

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